鷗外さんの小倉日記㉗暴風と長浜の盆踊り
(八月)
二十八日。登衙して雨に遇ふ。午後暴風雨。是日午後一時北方砲兵聯隊將に創立紀念祭を行ひ、將校集會所を落せんとす。 隊長柴田正孝予を招く。風雨に阻げられて往くことを果さず。
28日。第12師団に出勤途中、雨に遭遇。午後から暴風雨になった。
8月末ですからちょうど台風の季節、災害関係の史料で調べてみますと、「8月28日朝、奄美大島東の海上に達した台風は、宮崎市の沖を経て足摺岬付近に上陸、その後、四国地方を斜めに横切り、28日午後8時ごろ別子銅山を直撃、時速95kmの猛スピードで香川県多度津から岡山付近を通り日本海に抜けた。
別子銅山のある別子山村では、28日の雨量が1日で416.7mmを記録し、夜には随所で山津波(山体崩壊による土石流)が起こり、地すべりに乗って多数の家屋が住民もろとも豪雨で増水していた銅山川に押し流された。1879年(明治12年)に建設した大溶鉱炉が倒潰したのをはじめ諸施設の損傷も激しく、銅山の機能は完全に失われた。
東京朝日新聞社の報道によると、愛媛、香川、高知、徳島、岡山、兵庫6県の被害合計は1218人死亡、3672人負傷。家屋全潰・流失2万530戸。中でも愛媛県の死亡者662人、内別子銅山513人。同負傷者1968人、内銅山28人。家屋全潰・流失2064戸、内銅山122戸を数えた。また香川県の被害も大きく、340人死亡、971人負傷。家屋全潰1万766戸となっている。
(出典:宮澤清治著「近代消防連載・気象災害史127・台風、二大銅山を襲う(2)」他)」とありました。
香川県で観測史上最大の被害をもたらした台風が襲来した日ですから、北九州もこの時、雨風が強く、とても出かけられる状況ではなかったと推察されます。
28日は、ちょうど午後1時から(小倉南区)北方の砲兵連隊で創立紀念祭があり、将校集会所が落成するので、柴田正孝隊長から招待されていましたが、この暴風雨では行けませんでした。
柴田政孝隊長は石川県出身。嘉永2 (1849)年4月生まれ。明治6年陸軍砲兵少尉に任じました。この後、34年陸軍少將。舞鶴要塞司令官などを歴任します。
明治31年11月、陸軍第12師団は小倉城本丸に新庁舎が開庁、従来からの歩兵第14連隊のほか、北方に次の5隊が所属しました。
歩兵第47連隊=明治30年7月北方に兵舎が完成し移動。
騎兵第12連隊=同9月に移動
野戦砲兵第12連隊=同7月に移動
工兵第12大隊=同6月に移動
輜重兵第12大隊=明治31年11月に移動
この時落成した将校集会所は、現在も小倉駐屯地内にあり、「小倉駐屯地史料館」として公開されています。
小倉にかかわりのある陸軍史料が残されており、終戦直後、自決した小倉南区横代出身の杉山元(はじめ)・元帥に関しては1部屋設けて遺品やさまざまな史料が残されています。
小倉城下町さんぽ 秋月街道⑬北方参照
https://note.com/yamami2021/n/n8055d4f7e417
二十九日。始て冷し。夜に至りて士女地蔵尊に賽し、寺町の邊闐溢す。往いて看るに、老若皆火を點せる線香を手にして往く。諸寺の地蔵尊を安置せるものは、盛に燈を張り、又地上に沙を積みて丘を成す、方五尺なる可し。賽するもの線香を把りて、一枝づゝこれに投じ、丘上にいといとせしむ。張る所の燈は、多く曾て盂蘭盆會の用を經たるものにして、間ゝ毀損したるものあり。
29日、ようやく涼しくなりました。
夜になると、地蔵尊にお参りする男女で寺町あたりは大賑わいです。闐溢(てんいつ)は満ち溢れるという意味。
「寺町」というのは小倉北区のセントシティ辺り、かつて永照寺があったところですが、ここはお寺が多かったので寺町と呼ばれていました。
その辺りに行ってみると、老いも若きも火をつけた線香を手にして歩いていました。
寺町の地蔵尊を安置したお寺はどこも提灯を明々とともし地面に砂を5尺四方に積んで山盛りにしている。
お賽銭をあげてお参りする人たちは、線香をその丘のようになったところに1本ずつ立てその線香が林立していました。
掲げている提灯はお盆の時に使ったもので、中には破れたものもあるようです。
鍛冶町にも亦一地藏堂あり。
歸途その前を過ぐれば、童男童女二十人許堂前に環立して舞ふ。その歌ふところは所謂口説にして、舞ふもの皆節を撃ちて、えとさつさと呼ぶ。是より先き盂蘭盆會の夜、臧獲を遣りて往看せしめ、予自ら家を守る。此に到りて初めて盆踊りの状を見ることを得たり。盂蘭会に男女韈(たび)を著けて屐(げた)を穿かず、裾を褰げて腰に約す。今夜は屐を脱するに至らずと云ふ。
※注 盂蘭会は盂蘭盆会の書き間違いか
線香山を見て、帰る途中にある鍛冶町観音堂の前では、若い男女20人ばかりが輪になって踊ってるのを見かけました。
盂蘭盆の時、盆踊りの音が遠くから聞こえてきたので、家のお手伝いさんに見に行かせたが、この時、盆踊りを見るのは初めてでした。
この時の男女はタビは履いていたが、下駄や草履は履かず、裾をからげて腰にさしていました。でも、今夜は下駄や草履は脱いではいないようです。
この時の「盆踊り」は、小倉を中心とした旧企救郡一帯で踊られている「能行口説(のうぎょうくどき)」だろうと思います。
広場などの真ん中に太鼓を据え、横に音頭取りが立ち口説き(歌い)ます。その回りを踊り手が囲み、左方向に左足から進みます。左手を左前に出し、右肘を右肩の位置で曲げ、弓を引く格好をします。その所作で別名「弓引き踊り」ともいわれています。口説きの最後に踊り手が「まかして、こらしょい」「さー、よいとさのどっこいせ」と掛け合います(小倉南区のHP)。この囃子が「えとさつさ」と聞こえたのでしょう。
鷗外さんが見に行ったのは、「長浜地蔵の線香山」です。
このお祭りは、8月24日に行われます。長浜地区の西ノ丁にあった六地蔵(円応寺の末寺として創建)と先ノ丁にあった二つの地蔵さんをまつる祭りです。
西ノ丁の六地蔵はもと閻魔堂と同じ場所にあり、先ノ丁の地蔵より古いといわれています。六地蔵は昭和28年鹿児島本線移設のとき西ノ丁から末広町1丁目(砂津川畔)の現在地に移されました。
この祭りは明治まで大人が行っていましたが、大正時代に小学生だけで行うようになったそうです。
祭りの4、5日前になると子供たちが浦中と近接地を回りお盆の使い残りのろうそく、線香、初盆 の家からは提灯、灯籠などを寄付してもらい、祭りの前日23日には海水で地蔵さんを清め、新調のよだれ掛けをかけ、浜の真砂で線香山をつくります。
24日は六地蔵を中心に提灯を張りめぐらし、西ノ丁の各家ではお供物を供える。このお供物は夕刻に子供たちに配られる。夜になると提灯に灯が入り、参詣者のあげる線香山の線香の火とともに、祭事がにぎやかに行われ、子供たちは火のついた線香束を持ち、列をくんで西ノ丁から先ノ丁へ、また逆方向に地蔵さん回りをする。六地蔵の周りで盆踊りが催されることもあったそうです。
また、8月24日(旧暦7月24日を1月遅れの新暦で行う)の地蔵祭りには、米町の東岸寺や定光庵で砂を盛った線香山を作り、夜店も出てなかなかのにぎわいで、子供にとって夏の夜の楽しみの一つでした。
北九州地方、特に旧企救郡に伝わる盆踊りでは、先ほどの「能行口説」が有名です。
「能行口説」の題材は天保6年(1853年)(小倉南区)能行で起きた「お千代・儀平の心中事件」。お千代は、19歳の娘で幼少の時、能行村の五平次の家に萩から幼女として迎えられていました。また、儀平は、21歳の青年で、筑前田代村からこの村の庄屋の家に養子として迎えられていました。二人は、恋に落ちましたが、いずれも自分の家を継ぐことになっていたため、結婚は諦めざるを得ませんでした。しかし、諦めきれなかった二人は「心中」という悲劇的な結末をたどってしまいました。「能行口説」は、若い二人を悼んで作られました。二人の墓は小倉南区長行西にあります。
#森鷗外 #小倉日記 #盆踊り #北方 #さんぽ #北九州 #小倉
#焔魔堂 #能行口説 #六地蔵 #線香山 #お千代儀平心中
#地蔵祭り #小倉駐屯地史料館 #杉山元・元帥