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鷗外さんの小倉日記㉚飛白布の寝巻き

(九月)
五日。晴雨定まらず、稍ゞ寒し。
六日。夜來雨ふる。北方第四十七聯隊の内に一兵ありて頓に死せるを報ず。往いて檢す。事の稀有なるが爲めに、他日或は物議を生じ出さんことを慮ればなり。隊の将校及軍醫に訓示する所あり。

5日。晴れるかと思いきや突然降ったりしてはっきりしない天気。まだ9月というのに少し寒く感じる。
6日。昨夜から雨。
(現在の小倉南区)北方の第47連隊で一人の兵隊が突然死亡したとの知らせがあったので早速連隊に行って検分した。
理由もなく急に兵隊が死ぬなんて、稀なことなので、後でいろいろ問題が生じないように、慎重を期して赴いたもの。
その件で、第47連隊の将校や軍医に訓示した。この時は多分、一人の兵士の突然死の原因が不明ということで、ちゃんと目を行き届かせるよう訓示したのではないでしょうか。
陸軍歩兵第47連隊は、現在の北方の陸上自衛隊小倉駐屯地にあり、明治31年3月に軍旗を親授、大正14年になって大分に移動、大分の郷土部隊として親しまれました。

大分にあった歩兵第四十七聯隊の營門

七日。雨未だ歇まず。 婢元に飛白布を買はせ、新に衾裯を製せしむ。酒醬を賣る者旗手利平大阪にありて白未醬、甘蕃椒、奈良漬瓜の三種を郵致す。小婢春わが僑居の寂寥を嫌ひて去る。牙婆の女來り代る。竹原氏、名は久。
八日。午に至りて雨始て晴る。 第四十七聯隊の軍醫衙門に来りて云ふ。頓死者の親戚豐後國より至りて、その平生胃痙嘔吐の發作ありしを告げたり。蓋胃潰瘍ならんと。

7日。雨はまだやまず。お手伝いのお元にカスリを買わせ寝巻きを作らせた。
カスリといえば、福岡県久留米市が産地として有名です。
久留米絣協同組合のホームページによれば、久留米絣は1800年頃、当時12〜3歳だった井上伝(いのうえでん、1788〜1869年)という少女が発案したといわれてます。色褪せた古着の白い斑点模様に着目した伝は、布を解いて模様の秘密を探りました。その結果、糸を括って藍で染め、織り上げて模様を生み出すことを考案したのです。伝は生涯にわたり、この技術を多くの人に伝え、久留米絣の普及に寄与しました。
久留米絣が全国的に有名になったのは、一説によると、明治10年の西南戦争の時、関東からの兵隊が土産に久留米絣を買って帰り、久留米絣がは流行るようになったからだそうです。

井上伝
久留米絣

酒や醤油を作っている大阪の旗手利平に白味噌、唐辛子、ウリの奈良漬の三種を郵送してもらった。
唐辛子は南米が原産で、日本には天文11年(1542)に渡来したとされています。蕃椒とは唐辛子のことですが、甘がついているのでパプリカのようなものでしょうか。不明です。

味噌や奈良漬を送ってもらった旗手利平は調べてもわかりませんでしたが、旗手という名字は「日本姓氏語源辞典」によると、広島県、北海道、大阪府にある名字で、広島県では広島県尾道市百島町の村上水軍の後裔が旗を持っていた役割から称したと伝える、とありました。
このころ、大阪に旗手という酒や醤油を売る店があり注文したようです。

若い方のお手伝い、お春は鷗外さんの僑居(仮住まい)が男世帯であまりにも寂しいといって、やめてしまいました。
口入屋の女が来て新しいお手伝いと代えた。姓は竹原、名は久という。
8日。昼になってようやく雨が上がり晴れた。第47連隊の軍医が役所を訪ねてきて先日の頓死について報告しました。
それによると、その兵隊の豊後に住む親戚が来て言うには、日頃から胃に持病があり痙攣したり嘔吐していたという。胃潰瘍に間違いないだろう。

九日。第十四聯隊軍旗祭を行ふ。往いて其分列式を看る。式畢りて午餐を享せらる。仲木少將香椎の菌狩と對岸小瀬戸の漁との事を語る。 夕に常磐橋東の川利に往きて鰻を食ふ。その味淡く調理甜きに過ぐ。東京のものと同日にして語るべからず。一人前と稱するもの、飲酒を併せて六十五錢なり。聞く、小倉には十數年來唯此一店あり。舟を紫川に泛べて割烹す。然るに近年二厄に遭へり。上流に千壽製紙會社立ちて、河水汚濁し、生洲に宜しからざる一なり。南隣に奸商ありて、同じく河魚を以て業となし、同じく舟を泛べて割烹し、多く私窩兒を養いて客を延く二なり。

9日、第14連隊では軍旗祭が行われ、各部隊が隊形を整えて順に行進し、受礼者の前を通るときに敬礼する分列式があった。
軍旗祭とは旧日本陸軍の歩兵連隊および騎兵連隊で、天皇から軍旗を下賜された日を記念して行なわれた祝典。今の学園祭のような行事です。

軍旗


「軍旗祭」では、兵営が一般の人にも開放され、連隊の兵営たちが模擬店や、思い思いの出し物、芝居や仮装で内外からの来場者を楽しませました。将兵たちもこの日は普段の緊張から解き放たれ、軍旗祭を楽しみました。
鷗外さんも軍旗祭のあと昼食を取りました。
その時、仲木少将から香椎でのキノコ狩りや対岸での漁のことを聞きました。
夕方、常盤橋東の「川利」という料理屋でウナギを食べました。しかし、どうもここのウナギは鷗外さんの口に合わなかったようで、「味が薄く甘い」ので東京のウナギと比べるべくもないと酷評しています。
以前、当地の醤油がおいしくないのでわざわざ東京から取り寄せたことのある鷗外さんです、醤油が主な調味料であるウナギが口に合うわけはないですよね。
1人前、65銭だったと書いています。まずいのに高いと思ったのでしょう。
「値段の風俗史」によると明治30年頃の東京でのうな重の標準的な値段は、30銭くらいでした。
聞いたところによると「川利」はこの十数年来、小倉ではただ1軒のウナギ屋で、紫川に船を浮かべて営業していますが、近年、二つの災厄に見舞われているという。
一つは、上流で千寿製紙が操業を始めて、川の水が汚濁し生け簀にならなくなったこと、もう一つは南隣にやはり船を浮かべて魚を食べさせる奸商つまり悪徳な店ができ、数人の私娼 (ししょう)を雇って客引きを行っているという点だ。
※私窩兒(しかじ)とは売春婦、私娼 (ししょう)のこと。

常盤橋辺りの牡蠣船(屋形船)  =小倉今昔写真館 から

紫川から神岳川に浮かべた料理屋、カキ船だったと思いますが昭和の終わりごろまでありました。
「日記」のこの記述、当時の物価や風俗、千寿製紙による川の汚染など小倉市内における産業、公害にも触れて、鷗外さんはそれらにも関心を持っていたことがうかがわれます。
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