鷗外さんの「小倉日記」⑳ベルツ博士を厳島に送る
小倉城下町さんぽ・鷗外さんの「小倉日記」⑳ベルツ博士を厳島に送る
(明治三十二年七月)
三十日。ベルツ氏と再び兵營に至る。 夜又共に井上第を訪ふ。
途上ベルツ氏予に語りて曰く。日魯の爲めに謀るに、宜しく朝鮮を二分して、日本其南を領し魯西亞其北を領すべし。 韓人は決して自ら其國を治むることを得ず。 支那は必ずしも分裂せず。一朝人傑の出づるあらば、彼哥老會を率て起たんも、猶外人の跋扈を禁遏するに餘あり。
固より朝鮮と日を同じうして語るべからす。日本の現時の弊は金を愛するに在り、驕奢に在り。後者は殊に女子の服飾に著し。台灣賄賂公行の如きは、愛金の一徴證に過ぎず。
猶日本人の爲に憂ふべきは、その朝鮮に在るもの、土人を虐待すること是なり。此の如きは事微なりと雖、その影響する所測るべからず。蟻垤堤を毀つとは是の謂なりと。是日々曜に丁る。
三十一日。朝ベルツ氏の厳嶋に往くを送りて停車場に至る。夜天滿宮に詣で、祭を看る。
1876年(明治9年)に来日し、東京医学校(現東京大学医学部)で教鞭を執り、鷗外さんの師にあたるベルツ博士。
30日には兵営を訪れ、夜には再び井上師団長邸へ。
夫人と息子さんを再度、診察をしたようです。
「第」は聚楽第などにもあるように、屋敷の意味です。
当時の井上師団長邸は今の小文字通り、福岡銀行の辺りにあり、鍛冶町の鷗外さんの住まいからも近いですね。
井上邸へ向かう途上、当時の東アジア情勢や日清戦争後の拝金主義の風潮について、鷗外さんに話しました。
当時の朝鮮半島を北を魯西亞(ロシア)が南は日本が統治した方が良いと、このころから2分割することを考えていたんですね。
江戸時代終わりごろまでは、ロシアを「魯西亞」と表記していましたが、1875年の樺太千島交換条約の条文では「魯」に代わって「露」が使用され、以後「露」表記が主流になります。
この表記変更の背景には、ロシア側からの強い抗議があったとされています。
「文字は踊る」(大阪毎日新聞社、1935年)によると、「『魯』の字は、『おろかもの』の意味であるといふので、ロシア政府から、わが政府に抗議して來た。その後は、『魯』のかはりに、『露』の字をあてるやうになつた」といいます(日経新聞)。
「蟻垤(ぎてつ)堤を毀(こぼ)つ」とは蟻塚の穴から堤さえくずれるという意味で、朝鮮の人達を虐待し、たかが蟻の穴ぐらいと思って油断していると堅固につくった堤防でも崩れることがあるように、天下の大事を招くこともあるというたとえです。
また、ベルツ博士は、「日本の現時の弊は金を愛するに在り、驕奢に在り」と嘆いています。
〽熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ
で有名な尾崎紅葉の「金色夜叉」。
この作品は1897年(明治30年)1月1日から読売新聞で5年間連載されましたが、結末を書き終える前に紅葉が他界し、未完として終わっています。
主人公である間貫一の婚約者・お宮は、結婚目前にして貫一から大富豪である富山銀行のオーナーの息子富山唯継に乗り換えてしまいます。富山に嫁ぐことになったお宮と貫一が言い争い、激怒した貫一がお宮を蹴り飛ばすシーンが有名です。
「ああ、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処どこでこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後のちの今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! よいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」
妻となるはずの女性に裏切られたと感じた貫一は性格も生き方も一変して、お宮への復讐心を燃やし続けながら高利貸しになるのです。
冷血な拝金主義者としての人生を歩む貫一。
「金色夜叉」は日清戦争後の好景気に沸く当時の拝金主義を風刺する小説です。
舞台などでは小説とは違った簡略したセリフ「「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」がよく使われます。
ベルツ博士も、この日本の拝金主義に苦虫を噛んでいたようです。
ベルツ博士は詳細な日記(岩波文庫)をつけていますが明治29年から32年はブランクになっていました。
なぜ小倉を訪れたか、厳島神社のあと、どこへ行かれたのか、正確にはわかりません。
ベルツ博士が広島の宮島・厳島神社に行くというので小倉駅までお見送りをし、その後、古船場(天神島)の菅原神社のお祭りを見物しました。
この頃は「夏越祭り」でしょうか。
鷗外さんが赴任後初めて、小倉の行事に目を留めた気がします。
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