小倉城下町さんぽ 秋月街道①常盤橋
「すべての道はローマに通ず」。大袈裟に言えば、まさに九州の道は小倉・常盤橋に通じていました。
常盤橋は小倉の五街道(門司往還、中津街道、秋月街道、長崎街道、唐津街道)の起点。
九州の大名のほとんどは参勤交代の際、常盤橋に来て、そこから下関に渡るか、大里宿から渡海するかでした。
秋月街道は常盤橋から久留米までですが、江戸時代初めまでは九州北部の大名の多くが参勤交代の道として利用しました。
その後長崎街道の冷水峠が整備されてからは、脇街道として使われたようです。
常盤橋は江戸時代には一般的に「大橋」と呼ばれ橋付近を橋本といいました。
橋は紫川の氾濫でたびたび破損、文化・文政年間、橋脚が木製から石製に替えられました。文化や文政の年号が入った石の橋脚が現存しています。
橋を挟んで周辺には、参勤交代の大名や長崎奉行など幕府役人の定宿や旅籠、名物の三官飴、小倉織の店が並びにぎわっていました。
出島のオランダ商館カピタン一行も、白い象など将軍への献上品を持ち、100名程の行列で、毎年江戸参府を繰り返しました。
橋東の「大坂屋」(現在は駐車場)は久留米藩の定宿を務め長崎奉行や幕府役人もここに宿泊しました。文化年間、長崎奉行だった遠山左衛門尉景晋も往復したことが当時の庄屋の日記にあります。
遠山景晋は「遠山の金さん」のお父さんです。
橋のたもとに伊能忠敬測量200年記念碑。伊能忠敬は55歳から地図を作り始め、17年で40,000kmを歩き続けました。これは地球を一周する長さです。
その伊能忠敬も秋月街道を2回通っていますし、大坂屋に文化8年と9年に宿泊した記録があります。記念碑からはリバーウォークのゼンリンミュージアムが見えますが、一歩一歩歩いて地図を作った伊能忠敬、一軒一軒歩いて住宅地図を作ったゼンリン、何かの縁を感じますね。
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