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鷗外さんの小倉日記㉜平壌陥落と碧蹄館

(九月)
十三日。馬關に在る村田豊作の書、勝田少将の馬より墜ち頭を傷くるを告ぐ。即時陸軍省に電報す。
十四日。馬關に徃いて勝田少将の病を問ふ。 長養軒に午餐して還る。碼頭に近き西洋料理店なり。是日監督中谷皓の子某を堺町圓應寺に葬る。人をして代り送らしむ。
13日。馬関(下関)にいる赤間関衛戍病院長・村田豊作より手紙、勝田四方蔵(しょうだ・よもぞう)少将が落馬して頭をけがをしたとあり、すぐさま陸軍省に電報を打った。
勝田少将は7月に馬関に来た折、会っています。
馬関とは、下関の古称、赤間関 (あかまがせき) を赤馬関とも書いたことが由来です。関門海峡を馬関海峡などとも呼びました。
1889年4月1日、日本で最初に市制施行された31市の1つ(山口県で唯一)として赤間関市が発足、この時福岡県では福岡市と久留米市が市になりました。門司市は10年後の1899年、小倉市はその翌年の1900年です。
1902年に現在の下関市となります。
勝田少将は山口県出身、1845(弘化2)年11月~1918(大正7)年7月。明治8年の江華島事件では黒田清隆に随行し朝鮮に渡り、10年西南戦争では第3旅団参謀長、のち男爵。第2軍工兵部長、東京湾要塞司令官、下関要塞司令官などを務めました。陸軍中将、44年貴族院議員。
14日。下関に赴いて勝田少将を見舞い(徃いて=往の旧字)、波止場に近い長養軒という店で昼食を取って帰りました。
長養軒は調べましたが、わかりませんでした。ご存じの方がいらしたら教えてください。
この日は監督部の中谷皓の子の葬式が堺町の円応寺であったが代理を行かせたとあります。
円応寺は浄土宗のお寺。昭和28年までは、平和通り沿い、今の十八親和銀行あたりにあり、通りは円応寺筋と呼ばれていました。現在は小倉北区清水に移転しています。

勝田四方蔵


村田豊作は1861年(文久元)佐賀県生まれ。父は、佐賀小城藩(鍋島支藩)の御典医。
東京帝国大学医学部を卒業、1892年(明治25年)31歳で大阪府立医学校(大阪帝国大学医学部の前身)の教授を兼任。
ペリー来航の際通訳を務めた、長崎通詞の堀達之助の孫・成(ナリ)と再婚(先妻艶は前年に病没)。堀は我が国で最初に刊行された英和辞典「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」を編さん。また、「函館文庫」を創設した先覚者です。

堀達之助

村田は1904(明治37) 年、日露戦争で予備役軍医として招集され、小倉予備衛戍病院長に就任。
1916(大正5)年、鹿児島市東千石町に村田内科医院を開業。地域診療に努めるとともに、アララギ派の歌人としても活躍しました。

村田豊作の子、豊治が書いた「堀達之助とその子孫」


十五日。夜中原渉招飮す。中原は明治二十七年平壌陷りしとき、旅團副官たりき。此より後歳ごとに宴を催し友を會すと云ふ。中原曰く。當時此日の午後は生涯最も苦心したる時なりき。師團本隊と朔寧支隊との消息並に通せずして、我兵は彈糧共に匱し。以爲へらく。若し兩隊にして損傷我と同じくば我軍は敗れたりと。何ぞ圖らん敵の夜に乗して逃遁せんとは。座間又客ありて語る。碧蹄舘に近き山の半腹に笠を戴ける大石人二ありて、前後に列して立てられたり。何の像なるを知らず。韓國の村落には處々人面を刻める木柱あり。張木と日ふ。張は家僕の妻を奸せし惡人の姓なり云々。

15日。第12師団の参謀、中原渉を招いて酒を飲んだ。
中原渉は1852(嘉永5)年12月9日、宇和島藩士の家に生まれた。草創期の陸軍に入り、西南の役、日清・日露戦争に参戦、小倉師団在任当時文豪森鴎外と親交を結んだ。明治39年少将で退役、40年宇和島町長に就任し、大正7年まで町政を担当した。大正15年3月9日、73歳で没。港の一角に頌功碑が建てられた。(愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会・郷土の偉人から)


中原渉の頌功碑
中原渉の頌功碑の記事

1894(明治27)年9月、清国軍が集結していた平壌を包囲した日本軍が総攻撃を開始。この戦闘は日清戦争最初の大規模な陸戦です。同日夕刻には清国軍が降伏を申し出て脱出していき、翌日未明にかけて日本軍が平壌への入城を進めました。中原はこの「平壌陥落」で旅団の副官を務めていました。
この時の「戦友」たちが毎年、この戦いを懐かしみ宴を開いて会っているといいます。
そして、中原は「この日の午後は自分の生涯で最も苦心した」と、当時の戦況を振り返っています。
師団本隊と朔寧支隊の連絡が取れないうえ、わが旅団は弾薬・食料共に乏しかった。
以爲へらく考えるに)、わが旅団と同じように本隊と支隊の損傷が同じくらいひどかったら日本軍は敗れていたであろう。まさか、清軍が夜中に逃走しようとは思わなかった。
宴の途中、また客があり、碧蹄館の近くの山の中腹に笠を被った石人が二体あり前後に並んで立っていたが、何の像かも知らない。韓国の村落には所々人面を彫った木の柱があり、張木という。張は我が家の使用人の妻を誘惑した悪い奴の姓である、などと話している。

人面を彫った柱(韓国)


将軍標(韓国)


「碧蹄館」とは、ソウルの北方約20キロメートルの碧蹄にあった客舎で 明の使節のために歓迎の宴を開いた所。豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役における激戦場の一つ。この時、立花宗成が先陣を切り武功をあげたので有名です。

碧蹄館(韓国)


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