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小倉城下町さんぽ 秋月街道⑰守恒から徳力
日本地図を作った「四千万歩の男」伊能忠敬も守恒を通過しました。
伊能忠敬の日記に、測量隊は1813年(文化10年)10月10日に守恒村を測量しながら通過した記述があります。江戸から664日目でした。
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この日は曇りで早朝、田川郡香春町(米屋源右衛門宅に宿泊)を出立、小倉に向けて測量を始め、昼食では徳力村の庄屋「勘左衛門」が接待したそうです。
測量隊の食事は、幕府からの依頼を受けた各村々が準備しました。
もちろんお酒はご法度です。
忠敬さんは白いご飯が大好きだったそうですが、どんな昼食が出たんでしょうね。
守恒村では「植松」や「紺屋原(こうやばる)」という地名が出てきます。
「植松」は北九州市立大付近、その辺りまで守恒だったようです。
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「紺屋原」は旧322号線バス通りが新322号線に向かって右折するあたりから徳力方面に向けての現在のブックオフ付近とのこと。
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「紺屋原」と呼んだのは、近くに銅山があり、銅精錬の時に出た緑青水がその辺り一帯を紺色に染めたためであろう(郷土史家)とのことでした。
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また「砿屋原=こうやはら」が紺屋原になったとも考えられ、小倉戦争の記録「豊国戦記」では紺屋原を砿屋原と書いています。
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「砿屋」とは銅山から出た鉱石を選別、精錬する工場(小屋)の事とのことです。
守恒の旧道沿いを進みます。
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右手に蒲生八幡宮の大鳥居があるところ(鳥居前)で国道322号線に合流し、モノレールに沿っていきます。
この辺りから徳力です。
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徳力・守恒地区は現在、北九州有数の住宅地ですが、幕末時期の守恒、徳力の村々の世帯人口は、
守恒は21世帯100人、
徳力村は54世帯206人、
北方村は30世帯138人、
南方村は上下で60世帯284人
と至ってのどかな農村でした。
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