鷗外さんの「小倉日記」・語る会編「波瀾」「半日」と作家志望 令和6年4月
明治32年6月から約2年10か月、陸軍第12師団軍医部長として(北九州市)小倉に住んだ森鷗外さん。かつて暮らした小倉北区鍛冶町の旧居では毎月、北九州森鷗外記念会が「森鷗外を語る会」を行っています。
この記念会は、鷗外さんが小倉での任務を終え、東京第1師団軍医部長として帰任するとき、3月21日、三樹亭で「送別会」を開きました。
26日、地元の文化人を中心とした1000人以上の有志が小倉駅で見送りましたが、その後鷗外さんを慕った人たちが21日にちなんで「二一会」を結成、その流れをくんで1974年(昭和49年)鍛冶町旧居が北九州市文化財「史跡 森鷗外旧居」に指定されると、「公開講座」「しのぶ会」など様々な顕彰活動を続けています。
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令和6年の最初の講座は、轟良子さんによる「森鷗外夫妻の小説『波瀾』から『半日』への光と影」。
鷗外さんは小倉在住の末期、荒木志げさんと結婚、「美術品のような」妻と幸せな結婚生活を送りました。
しかし、念願の東京に帰ってからは、猛母・峰子さんと妻との間に挟まれ苦悩します。
その辺りの出来事、心の動きを書いたのが小説「半日」です。この作品がきっかけで妻・志げさんはすっかり世間に悪女として知られるようになります。
「半日」は鷗外さんが初めて、口語体で書いた小説です。
1908年、次男・不律が半年で死去、長女・茉莉も百日咳で生死の境を彷徨いました。
この時の峰子さんの対応が許せなかった志げさんは、鷗外さんに勧められて小説を書き始めました。
鷗外さんにしたら、稚拙な文章だったでしょうから、原稿に朱入れを行っています。
志げさんが小説を書いていたことは、あまり知られていませんが、「波瀾」「写真」などがあり、作品集も刊行されています。
世間によくある嫁姑問題といってしまえばそれまでですが、当時の超文化人・森鷗外家でのことですから、注目の的でした。
ところで、「森鷗外を語る会」の後で、小説家志望の「小原楸荘」(おばらしゅうそう)さんから、短編集をいただきました。モノクロコピーで、お洒落な表紙。「オオミズアオ」という峨が出てくる作品です。
「自然を愛で、生き物に感謝すること、心にお花を咲かせることを執筆の軸にしている」という小原さんには、地元出身の町田その子さんの後に続いていただきたいです。
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