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鷗外さんの小倉日記㉘行水と二十六夜待

(八月)
三十日。朝僦房主人宇佐美の婦告げて曰く。貴家の婢は身めることある如しと。婢姿容あり。性質豁如たり。恒に笑を帶び事を執り、而も些の媚態なし。予頗る愛す。是に於いて婢に問ひて曰く。
人汝が身めることあるを疑ふ何如と。答へて曰く。非なり。然れとも既に外間の言説あり。請ふらくば此より辞せんと。予の曰く。汝何れの處にか去る。曰く郷に反る。曰汝盤纏を要せば特に給せん。 日平生賜ふところ太だ厚し。請ふらくは檀那意を勞すること勿れと。袱を挟みて徑ちに去る。予謂へらく。 宇佐美の婦婢の浴するを覗ひて言ふ。予が見る所を以てするも、未だ必ずしも非ならず。恐らくは來り事ふるに先だつこと一二月の比胎を受けしならんか。その自ら去らんことを請ふに及びて、猶震めるに非ずといふは、恥づるのみと。

30日。朝、家主の宇佐美さんの奥さんが「お宅のお手伝いさんは妊娠しているのではありませんか」と言ってきました。
小倉に赴任して初めて雇ったお手伝いさんはお時婆さんですが、このお手伝いさんは2人目に雇った吉村春さん。春さんは肥後(熊本県)の生まれで、16歳。姿形がよく性格もさっぱりしており、いつも笑顔を絶やさず媚びるところがなく、鷗外さんはとても気に入っていました。
小倉三部作「鶏」には
「今度は十六ばかりの小柄で目のくりくりしたのが来た。気性もはきはきしているらしい。これが石田の気に入った。
 二三日置いてみて、石田はこれに極めた。比那古のもので、春というのだそうだ。男のような肥後詞(ひごことば)を遣って、動作も活溌である。肌に琥珀(こはく)色の沢(つや)があって、筋肉が締まっている。石田は精悍な奴だと思った。」
と書いています。(石田は鷗外さんがモデル)
本人を呼びつけ問いただしたところ、春さんは「そんなことありません」と否定しましたが、「関係のない人まで、そんなことをいう人がいるからには、辞めさせてもらいたい」と言い出した。
鷗外さんが「ここを辞めてどこに行くのか。あてはあるのか」と聞くと、「郷里に帰ります」と。「路銀がいるなら、特別にやってもいいが」
「日頃たくさんいただいているので、旦那さん気を使わなくて結構です」とは言ったが、しっかりいただいて風呂敷を抱えて出て行きました。
※盤纏(ばんてん)とは、こづかいや路用の金のこと。
自分が思うに、宇佐美さんの奥さんは、春が行水しているのをたまたま見て、おなかが少し大きくなっているのに気がついて言ってきたに違いない。自分が見てもやはり、ちょっとおかしい気がしていた。
自分の家に奉公に上がる2、3か月前には身ごもっていたのではないだろうか。
そのことを言われた途端、辞めると言い出したのは、身ごもっているからだろう。恥ずべきことだ。 

この季節(夏)ですから、春さんは行水していたのでしょうね。それを宇佐美さんの奥さんが見てしまったのです。※震める=はらめる

現在はコックをひねるとお湯が出ますが、かつては薪や木炭、石炭などを燃料として、お湯を沸かしてお風呂を立てるのは、水汲み、薪の調達、火の調節や始末までかなりの重労働でした。
庶民の家に風呂はなく、軒先にたらいを置いて沐浴をしていました。つまり「行水」です。たまに、共同の銭湯に行っていたが、今のようなたっぷりのお湯につかる入浴ではなかった。
今のようにたっぷりのお湯につかって入浴するのは、明治に入ってからで、
昭和30年代まで、庭先で行水するのは普通に見られたことです。

喜多川歌麿「行水」


鷗外さんは風呂に入らない人でした。
衛生に悪いとかいろいろ理由はあったようです。
息子の森於菟さんの随筆「父親としての森鷗外」には鷗外さんの「特殊な習慣としては銭湯に行かず家でも湯に入らず朝夕バケツ一杯の湯で体を拭うのが若からの習慣らしい。」と書いています。
「鶏」にも
「それから裸になって体じゅうを丁寧に揩(ふ)く。同じ金盥で下湯を使う。足を洗う。人が穢いと云うと、己の体は清潔だと云っている。湯をバケツに棄てる。水をその跡に取って手拭を洗う。水を棄てる。手拭を絞って金盥を揩く。又手拭を絞って掛ける。一日に二度ずつこれだけの事をする。湯屋には行かない。その代り戦地でも舎営をしている間は、これだけの事を廃せないのである。」と鷗外さんのルーチンとしての清拭が描かれています。

午後中濱東一郎來り過ぐ。與に語ること一時許。送りて停止場に至る。是日石黑忠悳氏書を寄せて曰く。赤間關に往くことの頻ならんことを恐ると。答へて曰く。來戍以來勇猛精進せり。赤間關の如きは、縦ひ公事ありて赴くも、旦に往き夕に還ると。

午後、東京大学同期で回生病院長をしている中浜東一郎が訪ねてきました。中浜はジョン万次郎の長男で衛生医学をドイツに学び、鷗外さんや北里柴三郎らとともに我国近代医療を築いた人物です。鷗外さんとは5歳上でドイツ時代に交友がありました。しばらく語り合い駅まで見送りしました。

中浜東一郎

ジョン万次郎は、高知県の漁民、日本人として初めてアメリカ大陸に上陸した人物として有名です。 漁の最中に遭難、アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカに渡り船長の好意で教育を受けました。
嘉永4(1851)年琉球に上陸、取り調べを受けたあと嘉永5(1852)年土佐に帰郷。翌年、ペリー来航時幕府より召喚され、中浜姓を授けられ万延元(1860)年日米修好通商条約批准使節の通訳として咸臨丸で渡米。帰国後も小笠原開拓調査、開成所(後の東京大学)教授就任など幕末から明治にかけて活躍しました。(1827年1月 〜 1898年11月)

ジョン万次郎

上司であるである石黒忠悳(いしぐろただのり)(1845年~1941年)から手紙が来ました。鷗外さんがよく赤間が関に行くことを聞き、そんなに行って大丈夫かと書いてありました。
石黒は苦学の末、明治4(1841)年、当時の兵部省軍医寮に出仕し、同13(1880)年に陸軍軍医監となって軍医制度の創設に尽力し、その確立に多大な功績のあった人で、後に、日本赤十字社社長・貴族院議員を歴任しました。
鷗外さんがドイツ留学時代、石黒も万国赤十字大会でドイツを訪れ、随行したことがあります。また、帰国した鷗外さんを追ってドイツ人ダンサーが日本に来たことで鷗外さんと石黒の関係は悪化しました。その事件の経緯は「舞姫」に詳しいですが、ドイツ時代、愛人問題でトラブった鷗外さんが、今度は、赤間が関、つまり下関の有名な馬関芸者のいる稲荷町に通っていると思って、苦言を呈してきたというわけです。

石黒忠悳

小倉の遊郭・旭町は、明治17年に出来ました。それまでは小倉から船に乗って海峡を渡り下関に遊びに行っていたわけです。
鷗外さんが小倉に来た頃は、九州鉄道の沿線に旭町は形成されていました。
『段々小倉が近くなって来る。最初に見える人家は旭町の遊郭である。どの家にも二階の欄干に赤い布団が掛けてある』(鶏)
鷗外さんは「こちらに来てからは節制しています。公用で下関に行くことがあっても、旦に往き夕に還る、朝出かけて夕方には帰っていますので、ご心配なく」と返信しました。

三十一日。午後大束昌可の子某來り訪ふ。京都郡豊津の人なり。嘗て東京美術學校にありて吾講筵に列す。父は小笠原氏の臣にして長豐の戦に與りしものなるが、今老いて益々壯なりと云ふ。

大束昌可の子某が訪ねてきたと書いていますが、大束は洋画家。1878(明治10)年福岡県小倉に生まれ、1902(明治35)年東京美術学校西洋画科本科を卒業したとありますので、小倉に来たときはまだ21歳、美術学校卒業前ということになります。
「大束昌可の子」ではなく、本人が来たのではないでしょうか。鷗外さんが東京美術学校で教えていた時の教え子です。鷗外さんが間違えたか、のちに清書した人の写し間違いでしょう。

大束昌可の「秋景色」


父は小笠原氏の臣、長豐の戦に與りしものなるが、今老いて益々壯なりと云ふ、と書いていますが、当時の史料「豊津藩士族切米名簿」を調べますと、
大束庫太郎(17石銀2枚 5人)(干城隊正衛半隊司令士)
大塚可右衛門(13石3人 准中士 下等)、
大束今右衛門(6石金2歩2人 差紙方)
3人の大束がいました。
名前の似た大束可右衛門か戦の役職のある大束庫太郎が父親の可能性が高い気がします。
大束可右衛門は、13石3人となっています。1石が180㍑なので13石を換算すると2340㍑になりこれが給料に相当する訳です。米の価格換算ではもっと安くなりますが、今の感覚で換算すれば、1石=約27万円(『江戸の家計簿』磯田道史監修 / 宝島社による) として13石は年350万円くらいでしょうか。換算計算の仕方はいろいろありますので難しいです。
この米を生活費に充てて養える人数が僅か3人ということなので、幕末の変動で企救郡や小倉を取り上げられた豊津藩は財政がかなり厳しかったのでしょうね。

大束昌可はのちに写真修正術の先駆者として成功。息子の大束元(1912年5月~1992年12月)は朝日新聞のカメラマンで本格派フォト・ジャーナリストとして活躍します。

大束元の写真集

夕に長濱に至る。漁家の男女舟を陳ね燈を張りて月の升るを待つ。所謂二十六夜待なり。旭町の海濱に烟火戯あり。
望み見るべし。人ありて告げて曰く。今宵旭町の邊は雜遝殆と立錐の地なしと。
夜半枕頭雨聲起る。
夢成らず蚊張近く聞く雨の音

夕方、長浜海岸に散歩に行くと、漁師が船を並べて提灯を灯し、月の上ってくるのを待っています。
「二十六夜待」です。
日記では一人で出かけたか、大束と一緒だったかよくわかりません。
二十六夜待は、陰暦二十六夜、とくに正月と七月の月の出を拝む民俗行事です。江戸で盛んでしたが、小倉にも残っていたのですね。
この夜の月は阿弥陀、観音、勢至の三尊の姿に上天するといって、これを拝むと幸運を得るとの信仰がありました。
月待行事は藩政時代から小倉の年中行事の中でも楽しい行事で、長浜の漁家はそれぞれの船に宴席を設け、盆提灯を吊り下げ海に出る船もあり浜辺に引き上げた船で待つものものもあり、三味線や太鼓を鳴らしてにぎやかに夜を過ごしました。やがて花火が打ち上げられ皆で見物します。
月見の場所は、千堂(木町)、一本松(愛宕山)、槁本下(常盤橋付近)、西波止の鼻(いまの日本製鉄小倉)となっていました。
旭町近くで花火が上がり遠くから眺めましたが、近くまで行った人によると旭町周辺は雑踏で立錐の余地がないほどの人出だったという。
夜中になっても眠れずに床に横になっていると、雨の音が聞こえてきた。

夢成らず蚊張近く聞く雨の音

東京で順風満帆の軍医、作家生活を送っていたが、今は「夢ならず」左遷され「西僻の陬邑・小倉」にいる。床に入り、蚊帳の中で聞く雨音もひとしお寂しく感じる夜であることよ。
初めての土地で感じた悲哀、自信家の鷗外さんとは思えぬちょっと寂しい句です。

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