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鷗外さんの小倉日記㊱福岡から熊本

(九月)
二十七日。午前偕行社に徃きて、始て福岡研究會に蒞(のぞ)む。午後一時五十八分博多を發し、夕に熊本に至る。池田より車を下れは、清田哲二、嶋田完吾等迎へて靜養軒に至り、晩餐せしむ。夜研屋支店に投宿す。嘗て嶋田の台灣に在りて咯血せしを聞く。今まのあたりその衰耗の狀なきを見る。喜ぶへし。靜養軒は下通町一丁目にあり、研屋支店は手取本町にあり。

27日。午前、偕行社に行き初めて福岡の研究会に出席、午後1時58分博多発の列車に乗車、夕方、熊本に到着した。

1906年の九州鉄道熊本周辺の駅
上熊本駅


九州鉄道池田駅(今の上熊本駅)で下車、清田哲二、嶋田(資料では島田)完吾たちが迎えに来てくれていて、皆で静養軒に行き夕食をとった。
嶋田は台湾にいる時、喀血したと聞いていたが、元気な様子をみて大変喜ばしく安心した。

島田完吾


清田哲二は1850(嘉永3)年9月、熊本県生まれ。陸軍二等軍医正で熊本衛戍病院長。
嶋田完吾は佐賀県出身。東大医科で鷗外さんの同級生です。
鷗外さんたちが夕食をとった静養軒は手取本町にあった料亭です。
「静養軒は当地第一流の旅館研屋支店に隣し、広大なる庭園を有せるはこの料亭なり。同所は元熊本藩の門閥家、俗に長塀有吉といへる旧邸なりしを以て、庭園甚だ広くして幽雅に、一方はこんもりとして昼なほ小暗き老樹を以て蔽はれ、中に大なる蓮池あり。池を還りて所々に小亭を構へ、本館また集会席、西洋室其他数室をす。料理は和洋両種とも客の需めに応じ孰れも美味に、殊に西洋料理は当地においては此処に優るものなし。」
とあり、細川家の家老、有吉氏の旧邸を料亭にしたものです。


静養軒

宿泊した旅館「研屋支店」は、手取本町にあり、店主は岡本次七郎。「諸般の設備、待遇、調理等本店と兄たり難く弟たり難くともに当地一等の客桟たり。地は熊本城に近ければ、坐ながらにして藤肥州当年の偉蹟を観望することを得べく、県庁、市役所その他の諸官衙公署亦附近の地に散在し、出入りに便なり。別に店内に玉突場及び物産陳列場を有し旅客の便を謀れり。店主は本店次八郎の兄にして、熊本宿屋業組合の頭取たり」(水前寺古文書の会)
とあり、研屋支店は現在の通町電停前あたりで市役所の並びにあり、与謝野寛らによる旅行記「五足の靴」にも登場する宿です。

二十八日。朝熊本衞戍病院内なる衛生材料支廠に至り、所管の材料を視る。官事畢りて後、三善支廠長此地の人眞嶋某の藏する所の大石良雄等自殺の圖巻及榊原康政の小田原陣中に在りて加藤清正に與ふる書を示す。巻尾に題して曰く。眞玄喬松記と。玄は名、喬松は字なるべし圖巻に據れは良雄を介錯するものを安塲一平といふ。當時細川家の物頭たり。安塲保和はその裔なりとぞ。 榊原の書は真贋を知らずと雖、第らく一本を騰寫して行李に收む。歸途新二丁目なる書肆の主人長崎次郎を訪ふ。又刺を茨木中将の家に投ず。大江村大字九品寺の邊に在り。旅舍に反りて午餐す。 柴野内藤兩少将の同じく舍れるを聞くを以て、徃いて面す。

9月28日、鴎外は熊本衛戌病院(現国立病院機構熊本医療センター)内の衛生材料支廠で公務をした後、三善支廠長からこの地に住む真島さん所蔵の熊本藩細川家の家臣であった安場一平が介錯した大石内蔵助の切腹にまつわる図巻を見せられました。
1703(元禄15)年12月14に吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君浅野内匠頭の仇討ちを果たした赤穂浪士は、その後細川、松平、毛利、水野の4藩にお預けとなりました。
細川家にお預けになったのが大石内蔵助、堀部安兵衛ら17名、その義士たちが細川家下屋敷で切腹(自刃)した時の図が「義士切腹之図」です。
今まさに切腹しようとしている大石内蔵助の横で刀を振り上げているのが介錯をした安場一平。

「御預人切腹図」(義士切腹の図)(永青文庫)今 まさに大石内蔵助が切腹!介錯人は安場一平

安場一平は元福岡県知事の安場保和の先祖。
安場保和(1835~1899年)は熊本藩士の子で横井小楠門下。明治4(1871)年岩倉使節団に随行して欧米を歴訪。5年福島県令。8年愛知県令。13年元老院議官。14年参事院議官。19年福岡県令、同知事。25年愛知県知事、同年勅選により貴族院議員となる。30年北海道庁長官。のちに満鉄総裁や東京市長となる後藤新平の岳父でもあります。
安場保和は九州鉄道開通、門司港開港などに尽力した人です。

安場保和(三の丸尚蔵館)


徳川家康子飼いの武将で「徳川四天王」の一人、榊原康政が小田原の陣の時、加藤清正に与えた書を見せられたが、どうもそれは本物かどうかわからないので、とりあえず書き写した。
宿に戻る途中、新町の「長崎次郎」書店を訪ねます。
「長崎次郎」書店は1874(明治7)年創業、1924(大正13)年に創建された現在の建物は、明治・大正期に活躍したトップ建築家・保岡勝也の設計によるもので、『国登録有形文化財』に指定されており、新町界隈のランドマークとして親しまれてきました。喫茶店以外は現在、休業中です。
保岡勝也は三菱の丸の内赤煉瓦オフィス街の設計(8号館から21号館)を手掛けたほか、先駆的な住宅設計でも知られる建築家。東京生まれ、東京帝国大学工科建築学科卒。学長であった 辰野金吾に師事。岩﨑久弥社長の三菱合資会社(現三菱地所)に入社。作品には、三菱合資会社長崎支店唐津出張所(現唐津市歴史民俗資料館)、岩崎弥之助深川別邸・池辺茶亭(現清澄園涼挺)などがあります。

「長崎次郎」書店(読売新聞から)

「長崎次郎」書店の店主を訪ねた後、大江村大字九品寺の茨木中将(惟昭第六師団長)を訪ね、名刺を置いて帰った。
宿に帰って昼食、柴野義廣(石川県出身)、内藤正明(歩兵第二十四旅団長)両少将が同宿していたので挨拶をしました。

柴野少将


午後四時坪井町の宗岳寺に至りて、蟠龍子の墓を拜す。墓は寺内域の西北邊に在り。石盖と石趺とは苔蒸したれど、石身は新に洗磨を經たる者の如し。拗入櫛形の如く彫り窪めたる面に、蟠龍先生長秀翁之墓と題す。側背に井澤長勝の撰む所の墓誌を刻めり。 長勝は長秀の子なり。域内猶井澤氏の墓ありて、西邊南邊等に散在す。

午後4時、坪井町の宗岳寺(現・中央区上林町)で井沢蟠龍の墓を参詣します。井沢蟠龍は肥後藩士、関口流抜刀術の師範で文武両道の達人。その博学多識をもって「広益俗説弁」「大和女訓」を著しました。鴎外は「広益俗説弁」を愛読していたそうです。
井沢蟠龍の墓は宗岳寺の西北にあり石蓋などは苔むしていましたが、本体は最近洗われたようで、表に「蟠龍先生長秀翁之墓」とあり、側面に息子の井沢長勝が選んだ墓誌が彫られていました。
寺内西、南には井沢氏の墓が散在しています。

井沢蟠龍の墓
大和女訓


参考  皇居三の丸尚蔵館
     しらゆり文庫
     大阪文化財ナビ
     宗岳寺HP 
     熊本文学散歩
     水前寺古文書の会
     奥州市立後藤新平記念館

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