小倉城下町さんぽ 秋月街道⑪城野
国立小倉医療センター方向へ城野街道を南に進みます。
左手、スーパーマックスバリュー手前の道に入り、辻で左折、細い道を行くと民家の間に小さな墓地。その中に「化龍先生の墓」①がありました。
化龍先生とは小倉藩士福島正信のことで、歌道、茶道、生花に通じ、寺子屋でも教えていました。
藩主が狩りの時に休憩した「富士見の茶屋」の司も務めていたそうです。門人たちが明治9年に遺徳を偲んで墓を建てました。
スーパー真裏の上城野公民館敷地内に「五輪塔と地蔵堂」③。
一緒に一石五輪塔、花こう岩で造られた万霊塔や、江戸墓も大切に祀られています。
辻から奥の道路角に文化2年(1805年)の銘が刻まれている石碑。②
表面に、青面金剛(しょうめんこんごう)と彫られており、病魔を退散させる威力があるものとされています。
元の道、いわゆる「城野街道」に出ます。
小倉城からはるかに離れているのになぜ城野?
そのわけは、現在の若園一帯に東西200m南北200mくらいの「丸城」という平城があり、その裾野ということで城野と呼ばれたいうことです。
応永戦覧記に「大内盛見が、城野台に陣す」とあります。
戦後まで城台の地形、濠の跡など残っていたそうですが、現在、遺構は全く見られません。
城というと小倉城のような天守のある堂々としたものを思い浮かべがちですが、昔の城は石垣もなく、土塁と木で出来た質素なものです。
ちなみに「城(しろ)」という字は、「土」と「成」という字から出来ており、土を盛り上げ、人を入れて安定させるという意味を表しています。
城が天守を備え立派になったのは、織田信長の安土城以降だといわれています。
城野地区は明治30年以降の北方の軍事施設の拡張に伴い、商業・住宅地として発展しました。
左手に真言宗「光明寺」④。二市一郡新四国霊場の本部の看板がかかっています。
小倉や門司を歩くと、各地に「二市一郡新四国霊場」と書かれた小さなお堂によく出会いますが、ここが本部なんですね。
北九州市にはほかに「北九州西国三十三観音霊場」「筑前国西国三十三カ所」や「帆柱四国八十八カ所」など霊場がありますが、根強い信仰があるようです。
向かいに浄土真宗「専妙寺」⑤
創立は永正2年(1505)、開基は村上治右衛門が本願寺の弟子となり名を道念と号し修行、帰国して一宇の坊舎を建立したとあります。
長州との戦争でこの辺りは激しい戦いがありましたから、その際、焼けたそうです。
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