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鷗外さんの「小倉日記」㉒同郷の朋
(明治三十二年)
八月一日。夜來雨ふる。午後山路蕗村長崎より至る。名は忠恭、元と都野守氏。郷人なり。宿す。
二日。北方に至る。輜重兵第十二大隊營及小倉衛戍病院を看る。夕に蕗村を延いて三樹亭に至る。
三日。雨。歩兵第十四聯隊營、衛戍病院分舍及衛戍監獄を観る。夜師團將校倩ふ所の獨逸語の師山崎常吉來り、教授法の得失を問ふ。
四日。蕗村を停車場に送る。夜井上中将を訪ふ。その家を挙げて筑後船小屋の泉に往かんと欲するを聞き、起居飲啖の事を告ぐるなり。是日暑甚し。
五日。朝井上中将を停車場に送る。 青柳忠次の熊本に往くに逢ふ。午後歩兵大尉水町恒一郎の葬を送る。肝膿瘍に死し、遺言して解剖せしめしが爲めなり。夕に偕行社に往きて筑摩定三郎を餞す。
8月1日午後、鷗外さんと同郷の山路蕗村が、訪ねて来ました。
山路蕗村(忠恭)は島根県津和野生まれ。鷗外さんより2歳上です。
津和野の藩校「養老館」時代には、鷗外さんと1番・2番を争った仲で「林(りん)さあ」(鷗外さんの本名は林太郎)「鋼(ごう)さあ」(忠恭の本名は鋼善)と呼び合っていたといいます。
明治15年(1882)、東京・済生学舎で生物・物理・化学を学び始めましたが、医学修業が出来なくなり、漢詩の修行をしました。
済生学舎は日本医科大学の前身で、明治維新から間もない明治9年(1876年)長谷川泰により医師の早期育成を目的として設立、日本で最初の男女共学の医学校であり、卒業生には野口英世や東京女子医科大学の前身である東京女医学校を創設した吉岡彌生がいます。
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山路蕗村はしばらく東京で教員をしていました。小倉に鷗外さんを訪ねてきた時は、島根県邑智郡川本小学校長の時です。
のちに益田小学校長、益田高等学校の前身である町立益田女子技芸学校(石西地方唯一の女子専門学校)の初代校長、その後浜田中学校校長など務めました。
益田市史によれば、蟠龍(ばんりゅう)湖の名付け親であるという。それまでは大盥・小盥(おおだらい・こだらい)と呼んでいたそうです。
「蟠龍湖は西側の大きい湖と東側の小さい湖の二つで構成されている周囲4km、面積13haの淡水湖。最大水深は10mと深く、貸しボート遊びや釣りを楽しめます。湖岸線が複雑にいりくんだ神秘的な様子から、竜がとぐろを巻いている(蟠る=・わだかまる)と漢詩人山路忠恭(やまじ ちゅうきょう)が「蟠竜湖」と名付けました。」(益田市観光協会ホームページより)
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ちなみに益田小学校のホームページによれば、創設は明治5年(1872年)で児童数9名、山路忠恭宅となっていました。
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翌2日、北方の輜重兵第十二大隊營及小倉衛戍病院を視察、夜にはいつもの三樹亭に山路を連れて行きました。
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小倉南区北方の「輜重兵第十二大隊營」は、現在の小倉南区役所、北九州高校辺りにありました。
この時は前年の明治31年11月に北方に移転したばかりです。
3日も「歩兵第十四聯隊營、衛戍病院分舍及衛戍監獄を観る」とあります。
歩兵第十四聯隊營は今の中央図書館、勝山公園のところです。衛戍病院分舍及衛戍監獄は田町あたりでしょうか。
夜、師団将校が雇っているドイツ語教師・山崎常吉が訪ねてきて教授法を尋ねました。
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4日、山路を見送り、夜、井上師団長一家が筑後・船小屋温泉に療治に行くというので、温泉での日常生活、食事などをアドバイスしました。
この日はとても暑かったと書いています。
翌5日、井上中将を小倉駅で見送りに行った時、師団の青柳忠次監督部長が熊本に行くのに出会いました。
午後、肝膿瘍で無くなった水町恒一郎大尉の葬儀に出席、夕方偕行社で軍医・筑摩定三郎と別れの食事をとりました。
肝膿瘍は細菌性の病気で現代でも治りにくい病気、水町大尉は剖検(解剖)が行われたこともあり、その葬儀に鷗外さんも参列したのでしょう。
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