私の原風景 嵯峨野という場所
10年住み続けた京都市右京区嵯峨野の地へ
1年ぶりに散策へでかけた。
何度も歩いた嵯峨野の田園風景、
たまに鯉が売ってる広沢池、
北嵯峨の八百屋や、無人野菜売り場、
農家さんの働く姿
愛宕山の参道へ通じるすこし湿っぽい道。
「帰ってきた。」
風景のすべてが美しく、
冷たい寒波の風にさえやさしい息を感じた。
愛宕山の雪化粧も相まって、
目に見えない光が心に満ちて
その美しさで胸がいっぱいになった。
土地の空気を、身体でピリピリと感じると、
やっと息が出来たような、
そんな安心感で心が満たされた。
出迎えも歓迎もない、冷たい寒波の風の中
自然そのもののあたたかな空気が流れている。
大好きな場所、嵯峨野。
きっと目に見えない人々が
自分を受け入れてくれているような、
そんな情景を想像してしまう。
もしくは、二人で一つのような、
胎盤で繋がれた赤子と母の関係なのか。
なにか深いところで繋がっているような、
この気持ちは一体何なのだろか、
とても知りたいのだが今の所、正直よくわからない。
わからないのでひとまず私の「原風景」と呼びたい
愛宕山へ通じる道中に、朽ちた木の鳥居を持つ
鳥居本八幡宮という神社がある。
気持ちの赴くままに、たどり着いたのが
そこにひっそりと佇む神社だった。
五山送り火の一番最後に点火する鳥居の山、
曼荼羅山の麓にある。
この神社は鳥居の形の起原とする由来の場所であるらしい。
何度か訪れたことがあったが
ご挨拶したことがなかったので初めて参拝した。
手を合わせ、今日感じたことを伝えた。
嵯峨野の美しさや土地の優しさに感謝すると
段々と涙が溢れた。
周りに人が誰もいなかったので
神楽殿なのか、能舞台のような建物に腰掛け
しばらく過去の記憶を辿った。
境内には大きな椎木が背高く真っ直ぐに伸びており
その手が空を埋め尽くしている
その神社は、山に入ったときと同じような
森の命を風を通し、確かに感じた。
鳥の声と木々の揺れる音に、神社の声を聴いた。
気持ちが落ち着いたとき、
目の前の木の模様にニッコリ顔にみえた。
慰められたように感じたが
よくみると情けない「へ」の字の口をしていて、
思わず笑ってしまった。
自宅に帰り、白昼夢でも見た心地でいた。
白昼夢なんてみたことないけど。
おもったのは、そこの神社で
自分を半分、連れて帰り忘れたかもしれない。
記憶の中で、土地で感じた風が止まない心地がする。
心のうちに残しておこうと思った。
誰にも伝えることはないだろうと思っていた。
でも初めてここに記しておこうと思ったのは
この気持ちは、このわからないことは
わからないまま漂わすことを
愚直な形でも残しておかないといけない気がした。
私は、嵯峨は生まれ育った場所ではないけれど、
間違いなく私はこの土地でうまれ、
生きたのだと信じている。
しばらく思い出してなかった嵯峨野との思い出が
車輪を回すようにどんどん思い出してゆく。
yama
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