無問題②
二年生のときの担任の先生は鎌田先生という名前だった。
僕のような生徒の相手に慣れている、「専門」の先生だったらしい。鎌田先生はさすが専門と言った感じで、僕に単純作業をさせると、それに集中して大人しくなる、という特性をすぐに見抜いた。
僕が授業に飽きて席を立とうとすると、先生は、図工の版画の続きをやっていいから、と硬い画用紙を紙を僕に渡した。僕はそれをハサミで色々な形に切り抜き、放課後にインクをつけて版画にした。
半年後、僕はその作品で小学生美術展の県展で金賞をとった。
「トゲトゲザリガニジマス」というタイトルだった。トゲの生えた魚とザリガニのキメラが、小さい魚を食べようと追いかけまわしている絵だ。
ぜんぶ喰らって、喰らって、喰らいつくしてしまいたかった。
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その頃から僕は同級生から「ペンギン病」と呼ばれるようになった。吃音で、どうしても言葉の最初がつっかえてしまうのをなんとか誤魔化そうと、両手で体の側面を叩きながら喋っていたからだ。ときどき叩きようによっては単語が綺麗に発音できて、それが嬉しかった。ペンギン病、というあだ名も、まず「病」という言葉が頭の中で変換できていなかったし、当時「ペンギンの問題」という漫画が好きだったので特に気にしていなかった。気にしないで済んでいた。
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小学生三年生になってから雲行きが怪しくなってきた。三年生になると宿題が出されるのだが、それがどうしても終わらせることができなかった。たぶんノートに2ページ、漢字の練習をするだけだった気がする。
ある日の夜9時、どうしてもできない、終わらない、と僕が叫んだ。お母さんは泣く僕に無理やり鉛筆を握らせて宿題をさせた。学期末の漢字の50問テストは再々テストまでやったが、その次はなかった。
(僕の文体があまりに暗いせいで、学校だけでなく家庭環境の状況も芳しくなかったと誤解されそうなのでここで言っておくが、断じてそんなことはない。基本的には両親は異常なほど僕に甘かった。家庭環境が良すぎて、僕の人生は誰かが創作したホームビデオなんじゃないかと疑っていた時期があったくらいだ。一時期、お母さんが希少疾患で入退院を繰り返していたり、お父さんが職を失ったりはしていたが、別にそれで多少家が荒れていても、僕がなにかを気にしたことはなかった。)
僕は少しずつ周囲の「平均」のラインの下を行くようになった。
小学校のフルカラーのテストは紙飛行機になって僕をアメリカに連れて行ってくれたし、シャトルランでは音階がいつのまにかはなかっぱのオープニング曲に変わっていた。
(続く)