バルト海と地中海を結ぶ古代の夢を追いかけて(2/3)
ノヴゴロドもその後ハンザ同盟に加わり、商業都市として繁栄する。ノルマン人、そしてハンザ同盟の商人達の交易ルートは、タリンなどのバルト海の都市から、ノヴゴロドを経て南下し、キエフからさらに黒海を経て、コンスタンチノープルに及んでいた。そして、もちろんその東端からはシルクロードへ、そして南端からは中東を含む地中海世界全体へ販路が広がってゆく。
旅をしながら歴史に触れるときは、年表に従った退屈な日本の歴史教育を忘れよう。そして、横に広がった人々の交易や交流に夢を馳せよう。縦に切るのではなく、横に広げないと、人々のグローバルな動きはつかめない。
12世紀、この豊かな交易の富を、モンゴル軍があさってゆく。
ロシアでいう「タタールのくびき」である。その侵略をノヴゴロド公国が逃れたことで、ロシア世界の中でここが東の世界との接点として注目される。そして、モンゴル人が駆逐されたあと、同じルーシによる都市国家、モスクワ公国が勃興し、ついに商人が自治を守っていたノヴゴロド公国も吸収される。その過程で6万人にものぼる人々が虐殺されたという。1570年のことだった。
日本でもそれから間もなく世界に目を向けた商人の街、堺が信長そして秀吉の傘下に伏している。その後ほぼ似た時期に、日本に徳川幕府という統一国家が産まれたように、ロシアにも都市国家を統一したロシア帝国が創成する。