【セクシー田中さん】経緯の公表は100%無いし、する必要もないとオタク編集者が考える理由【宝塚・ジャニ・松本問題とは違う】
ご無沙汰してます。オタク編集者です。
いまさら改めて僕が解説する必要もないと思いますが、セクシー田中さん問題が大変話題になっております。
映像化に伴うトラブルが持ち上がってきた頃から、またこういうことが起きたかと注目していましたが、原作者の芦原先生が自死を選んだということはさすがに驚きました。
とても痛ましいことで、悲しいことだと思います。
同じことが起こってほしくないですし、関係した方々はもちろん、業界の末席にいる人間として、同じことが起こらないように何ができるかを真剣に考えたいと思いました。
当然、私は当事者ではありませんので、何か起きたかということは全く存じ上げません。
しかし、この問題における表に出ている情報や、状況と照らし合わせてSNSや各有識者の意見を拝見していると、
「それは違うのではないか」と驚く論調が増えていたり。
なかには、暴論と言うべきものが正論として出回っていて、ここ数日大変モヤモヤしたものを感じます。
そんななか、昨日小学館の社員向け説明会で以下のことが説明されたと聞きました。
正直これについては社員に対しての説明であって、世間に向けた発表でもないのに、みんなよくここまで騒げるなと思わなくもないのですが……
僕は、これは当然だろうなと思った対応だと思うんですが、本日あまりにもこれに対して批判が集まっていることに少し驚きました。
あまりにも「社外に向けて説明しろ」という人が多いのですが、ほとんど全てこれが理にかなってないんです。
この問題については現場のコミュニケーションであったり、裏で起きたことを含め始めると、大変複雑な話になってしまうのですが、少なくとも対外的な小学館の対応に絞れば、とてもシンプルな話だと思っています。
本日見かけた批判の内容と照らし合わせながら、ネットの界隈にいる編集者の一分析を書き留めておく意味で、ここに記載します。
●前置き・注意点
一応、書き始める前に以下のことを前置きしておきます。
・僕は現役のオタク編集者ですが、小学館と一切関係はなく、お仕事したこともありません。ですので、このセクシー田中さん問題は、第三者として分析しています。
・これから書くことについては、2024年2月7日現在に表に出ている情報だけを取り上げて分析しています。後述もしますが今後、違う情報が出た時は違う考えになる可能性もあります。
・この記事は「小学館は経緯を公表すべき」と主張している人たちの意見に対して、僕なりに「それは違うのではないか」という意見を公表されている事実から分析するものです。
本件の関係者に対して、事件に関係する行動の評価はしておりません。なぜなら、何が起きたかはわからないからです。
●公表しない理由:公表を希望している「本案件の関係者」が、現時点で誰も存在しない
最初に結論を述べますが、理由はこの一言で終わりです。
誰も公表を希望していないから、公表しない。
ドラマ制作サイド、出版社サイド、お亡くなりになった芦原妃名子先生のご遺族・関係者から「何が起きたか世間に公表すべきだ」という声明は、現時点でどこからも観測できていません。
本件の関係者の定義とは、「セクシー田中さん」の原作制作、ドラマ制作において関わった方が「どうしたいか」という意志を、直接でも人づてでも確認できる立場の人と考えています。
それ以外は関係者ではなく、この案件に対して方針に口を挟む権利がある方はいないと思います。
なぜなら、この問題で世間に発信する内容について、誰か1人の判断だけで決められず、どう向き合いたいかは慎重に確かめるべきだからです。
あくまで直接的なものではありますが、本件はもともとドラマの制作現場から出てきた不測の発信から火種は生まれました。
それに鑑みても公表することによって、どんな不測の事態が起きるかわからないということは関係者こそ理解しているかと思います。それは芦原先生のご遺族や関係者も含めて、望まないことを生みかねないとも思います。
「世間に向けて発信しなくても良いことは発信しない」というのは、取りうるであろう選択です。
とくにいま、小学館が最も気を遣うべき相手は、突然のご不幸に見舞われた芦原先生のご遺族や関係者です。
「公表しろ」と言っている方々の多くは、これに気が付いていないか。
もしくは「なにがあったか知りたい」という自分の欲求を優先して、あえて無視しているように思えます。
ご遺族からは「今はそっとしておいて欲しい」というコメントが出ている。
芦原先生の最後の言葉も「攻撃したかったわけじゃなくて」と言うもの。
話題が今以上にヒートアップして、どこに矛先が向かうかわからない事態を危惧して、小学館が無関係の第三者に今回の経緯を説明しないのは至極当然です。
逆に、今回の批判を受けてさらなるイメージダウンを避けるため、無関係な第三者に経緯を公表するほうが、僕は不誠実に思えます。
責任の取れない結果に繋がる可能性を無視した、その場しのぎでしかありません。
「小学館が経緯を公表しないのはなぜか」と言う問題に対しては、これが全てです。
だからこそ、非公表は「故人の意向を汲んだ」ものなのです。
それは今回の悲しい事件において、最も尊重されるべきものであって、 どれだけ批判を浴びようが無関係な人の要求は優先されるべきではないのです。
それを確認できるのは、これまで芦原先生と接してきた、あるいはいまご遺族と連絡を取っている小学館の編集部や担当編集者だけです。
あくまで周りで見ている人たちは、その方々に気持ちを確かめることもできません。
少なくともご遺族からは「今はそっとしておいていただき、静かに見守っていただければ幸いです。」というコメントは出ています。
(重ねますが、これはあくまで現段階で情報として出ていない、ということが前提です。また、現場の一個人の思いは別にあるかもしれませんが、それは無関係な人には確かめられません)
少なくとも、小学館が公表しない理由はこれだと思います。
仁義的に社会的な立場として自体を公表するべきではないのか。と言う声も上がっています。それに対しても、僕はこの問題については世間一般に経緯を説明する必要はないと思っています。
●公表が必要ないと考える理由と、世間の5つの誤解
そもそも、世間に対して会見を開いたり説明するのはなぜでしょうか。
世間に対して説明や会見を開く大きな目的は、何が起こったかを第三者が判断すべき事象だと思います。
つまり必ず問題が起こったところで、当事者同士の対立や紛争が起こっているのです。
Aという当事者と、Bという当事者に対立が起こっていて、それそれが世間に「事実はこのとおりである。自分にはこのような主張がある」と訴えることによって、判断してもらうのが目的です。
問題の当事者が世間から袋叩きにされる場合でも会見を開くのは、弁明して世間に理解をしてもらう、第三者の意見を得ることで自分にも情状酌量の余地があると理解してもらい、相手との交渉を有利に進める……というメリットも存在するのです。
しかし、今回の場合、その対立構造は起こってますか?
「当事者同士の対立」は、現段階においては存在しないのです。
だから、経緯を説明公表する「大義名分」も無ければ、必要もありません。
なぜなら関係者は、前項で記述したように誰も希望していないからです。
世間に対して訴えかけるべき事象も、経緯を説明して判断してもらいたい立場の人もいないのに、なぜやる必要があるのか。
シンプルに考えれば、こういった結論が出るはずなのに、なぜか有識者も含めて「経緯を公表すべきだ」という声が多いのか、正直なところ理解に苦しみます。
上記に関連して、「公表すべきだ」と言っている人のなかに共通した誤解が発生しているとも考えました。
それぞれの理由で被る内容もありますが、まとめてみたいと思います。
●誤解1:SNS上も含めて、世間では何があったかを知りたい人がたくさんいる。だから公表すべき
これは当然ながら、公表すべき理由にはなりません。
忘れてはいけないのはSNSを含めた「世論」は、本来本件で起きた事象には、何も関係が無い外野です。
率直に言ってしまうと、外野が今回の真実を知ったところで、それが今回の案件の関係者の「利」に繋がるのでしょうか?
「利」を得るのは今回悲しい想いをした人も含む関係者ではなく、無関係の人間だけです。
平たく言ってしまうと、それは世間の知識欲や好奇心、あるいは不安の解消のための公表であり、ご遺族を含む関係者が話題を提供する義務は全くないのです。
「知識欲や好奇心」と切り捨ててしまうと、「いやいや、私は本当に作品や亡くなった芦原先生の為を思って言っているんだ」と怒る人がいるかもしれません。
しかし、繰り返しますが、そう言っている方々は本案件には何も関係がありません。
いまのところ「セクシー田中さん」の問題でSNSで怒っている人たちのなかで、今回の問題を直接芦原先生から相談された方は見かけません。
しかも、ある程度事情を「公表した」結果、ご本人にとって意図しない結果を招いた。つまり「攻撃したいわけじゃなくて。」という言葉です。
この案件に関わった人の中で、非がある人、非がない人それぞれいると思います。もしかしたら中には被害者というべき人もいるかもしれません。
ただ、その人が世間に対してこの話題を公表したい人は今のところ居ない。
それを汲んだ上で、「故人の意向」として公表しないことを選んだのですから、それ以上に小学館を責める理由は無いでしょうと考えてしまいます。
この件においては、どこまでも優先されるべきは、ご遺族や芦原先生の周りの関係者の意向です。
それが確認できない以上、無関係な人の「べき論」は全くの無意味です。
(この問題で驚くのは、再度申し上げますが、世間に説明すべきだと言う人が全員関係者じゃないところから出ていることですし、これに対して疑問を挟む人があまりにもいないということです)
●誤解2:この問題は自民党やジャニーズや宝塚、松本問題と同じ。説明すべき。
この問題と、上記の問題は全然違います。
それは、前項と同じくこの問題では 明確な「被害者」が確定していません。
かつ、当事者間の中で、この段階に及んで争う意思を持っている人もいません。
ジャニーズ問題は、はっきりと被害者がいてその方々が問題の解決を訴えています。
宝塚問題も、松本人志問題も同じくです。
いわゆる不利益を被った方々が、世間に事実を公表したいと言う意思があり、第三者にこの事案を判断してほしいと言う意図があります。
自民党など政治の問題は税金が関わる以上、国民が直接的に不利益を被る案件であり、説明する責任は追求されてしかるべきです。
これらの問題は「被害者」がいて、 公表を求めています。
ここがこの問題と大きく異なるポイントです。
前項と繰り返しになりますが、 本案件は「被害者」が明確ではなく、 公表してほしいと言う関係者は存在しないのです。
公表すべき大義はありません。
やはりこれらの問題と同じと捉えて、セクシー田中さん問題を追求している方は、一番大事にすべき「芦原先生の意向」という存在を忘れているのではないか、と思えます。
●誤解3:小学館で仕事をする現役の漫画家や作家、脚本家からも批判が上がっているから開示すべき
これまで述べてきたように、「本案件」においてはこれらの方々も一切関係がない方です。
意見を述べるのは自由ですが、意向が優先されるべき権利はありません。
小学館や日テレで仕事をしているんだから、関係者にあたる! という人もいるかもしれません。
ただ、その人はその人自身の「作品」で関わっているはずです。今回の「セクシー田中さん」という作品の現場とはなんの関係もありません。
(少なくとも僕が見る限り、この「セクシー田中さん」の案件で直接関わっている方で「何が起きたかを公表すべきだ」と主張している人は、1人もいないと思います。もし、この後出てきたら、話は変わってきます)
あくまで現役の漫画家さんや作家さんは、ご自身の作品と小学館と言う両者のやりとりのなかで、お仕事をされているはずです。
もちろん、ご自身の作品を小学館と言う会社に安心して預けられないと言う気持ちはわかります。
ただ、その時に確認すべきは決して「今回の件の経緯」ではないはずです。
確認すべきは「小学館は自分の作品をどのように扱うつもりがあるのか、どのような姿勢で臨むのか」ということです。
ご自分の作品においては、クリエイターは当事者です。当然聞く権利があります。ただ、全く関係のない作品の経緯について、小学館を含む関係者が第三者に話す義務はありません。
それでも、「経緯を聞かなければ私は小学館とは仕事ができない!」というなら、事実として信用を構築できないので、それまでだと思います。
小学館としては、本件の関係者の意向以上に第三者の意向は優先できないはずです。
取引先としてクリエイターが小学館とお付き合いできない、他で仕事をするというのは小学館にとって痛手でもあります。
そのリスクが当然あると踏んでも公表しないと言う選択を取るのは、当事者の意向や総合的な判断として理解できます。
(「小学館にとって公表するほうがデメリット」と考えている部分も、あるとは思いますが)
誤解を与えないように言っておきますが、僕は「だから現役漫画家や作家は小学館の言うことを聞くべき」というわけではありません。
出版社なんていくらでもありますし、いまは自身で発表することもできる時代です。 取引先を選べるのがフリーであるクリエイターの強みです。
信念を通して小学館をしない人、今回の件で小学館に対して不信は抱くものの作品にとってのメリット・デメリットを考えとどまる人。
それぞれの選択が正しいと思います。
この項についてはあくまで、無関係な立場から関係者に「公表」という選択を強いることは理にかなってないというだけです。
●誤解4:小学館の社員や、フリー編集者からも「公開すべき」という声が上がっている
この項目は多少推察が混じりますが、小学館も大企業です。
いろんな考えの人がいるでしょう。
ただ、少なくとも本案件において、本件の直接の関係社員や責任取れる立場の人から、「公表すべき」という声は確認できていません。
「公表すべき」と言った方は「それで起こる事象に対して、責任が取れる立場の者」が言っているのでしょうか。もしくは「関係者からヒアリングして判断した上で、声を上げている」のでしょうか。
その立場ではない人が、いま声を上げたとしてもそれは本件については無関係に近く、それによって「公表すべきか、どうか」に影響は与えられないと思います。
もちろん、その会社で働く者にとっては、会社の方針に対して意見をすることができます。
ただ、あくまでそれは会社のなかの議論ですし、表に出るべきではないこと。また、あくまでも意見として出せるものであって、公表するかどうかを最終的に決定するべきは、当然ながら責任を取れる立場の経営者です。
もちろん、真相を知った小学館の社員が世間に知らしめるために、全部暴露してやろうぜみたいな展開になる可能性も否定はできませんが……
それを選択した方は、本件の関係者や芦原先生のご遺族など、傷付いた方の意向に反している可能性が高いわけで、セカンドレイプに近いものになるんじゃないかと思います。
そもそも、その立場の人たちから「公表すべき」と声をあげるのはなぜでしょうか。 おそらく取引先や、付き合いのある作家さん・漫画家さんからの不信感に対して説明したいからと推察できます。
(決して「ただ知りたいから」ではない……と思います)
ただ、残念ながらその取引先も作家さんも漫画家さんも、本件に関しては無関係です。 あくまで信用を説明する場合は、関わっている案件に対してどのような姿勢で臨むつもりなのかと言うことを説明するしかないと思います。
それ以外の方法は無いでしょう。
●誤解5:これでは芦原先生が可哀想で、浮かばれない。芦原先生のためにも開示すべきだ
最初、冗談で言っているのこと思ったのですが、一般の方も、業界内の方までこの意見が多くてびっくりしました。
これを言ってる方、芦原先生から直接この問題で相談を受けた方でしょうか。「攻撃したかったわけじゃなくて。」というご本人の一言や、「今はそっとして、静かに見守ってほしい」を本当に咀嚼した方でしょうか。
この主張は、あまりにも一人よがりすぎます。確認したこともない相手の気持ちを持ち出して、自分の気持ちを優先させているようにしか思えません。
今回の記事の1番大事なところなので何度も記載しますが、 この件において最も優先すべきは、「芦原先生本人」や「ご遺族の意向」です。
「亡くなった方の意向を都合よく持ち出して、小学館が逃げている!」という主張もゴロゴロ見ますが、本当に勝手なところで芦原先生を持ち出しているのはどっちでしょうか。
少なくとも小学館は本人からも、ご遺族からもお話を聞いているはずです。無関係な第三者は、小学館よりも持っている情報は圧倒的に少ないです。
そして、既に当事者からのコメントは公表されています。
これが全てです。
●結論:公表すべきという主張。ほとんど「それってあなたの感想ですよね?」状態
今回のまとめ。
結論に入りますが、「小学館は経緯を公表すべき」という方々の主張は、こうした方がいいという「意見」、もっと言うと「単なる感想」にすぎないのです。
(僕はひろゆきはあまり 好きでは無いですが、最もキャッチーに今回の大多数の行動を表すのにピッタリだったので使いました)
「感想」とは、事実よりも感情や自己の考えを優先させた発信です。
ここにおいての「事実」とは、何度も記載しているように本人やご遺族を含む関係者の気持ちです。
ここが確かめられない以上、経緯の公表に大義はありません。
もちろん意見や他人の感想によって行動を見直すということ自体は、起こり得ることだと思います。
ただし、それはあくまで参考に過ぎないのであって、関係者がそれに合わせる義務は無いのです。
既にSNSどころか、スポーツ紙メディアからも暴論というべき意見も出ています。
たとえば
・「名探偵コナン」や「葬送のフリーレン」を日テレから引き上げるべき。
・小学館の対応に際して、大御所の漫画家たちが怒りを示すべき。そのような声があがらないのはなぜなのか!
という意見です。
小学館で描いている漫画家さんたちが、本件に対してどのような考えを持つかは自由だと前述しました。
一方で、当然ながら本件に対して静観、もしくは無関係な者として関わらないのも自由です。無関係なクリエイターには何の責任もありません。
とくに前者の「コナン」「フリーレン」の引き上げ論調は、スポーツ紙にまで書かれていて、大変驚きました。
作品のアニメ化や関連展開で収入を得ている両作品の漫画家先生が、なぜ巻き込まれなければいけないのでしょうか。
「原作者を大事にしろ!」と主張する人たちが、同じ論調のなかで上記のことを主張しているのです。矛盾も甚だしい。
いま、この問題はおそろしくヒートアップしています。
こんな状態で経緯を公表した結果、「正しくそれを分析して議論される」ということ以外の論調や、暴論がさらに発生することも目に見えています。
それでも当事者が、第三者に判断してほしいと言うのであれば、公表すべきだと思います。しかし、本件に関わる方は誰もそれを求めていないのです。
ですから「経緯は公表されることはないだろうし、公表する必要もない」のです。
有識者も含めて最初は冷静に本件を分析していた人も含めて、あまりにもこのことに気が付いてない方が多いのではないかと思いました。
本気で「小学館が経緯を公表することこそが絶対に正しく、誠意ある対応」だと思っているのです。
僕は、その一辺倒な考えこそ芦原先生の周りのご遺族を傷つけることにならないか? と危惧したのが、今回の記事を書いた理由です。
最初に記載したように、僕も今回の案件についての関係者ではありません。ですから、本当に心の内で関係者の皆様が思っていることは確かめようもありませんので、これも「感想」の一つです。
ただ、現在表に出ている事実から推察されるに、僕はどうしても「経緯の公表」が絶対的に正しいとは思えないですし、 現在のメジャーな論調にストップをかける意見を出しておいた方が良いのではないかと思い、執筆しました
●じゃあ再発防止はどうすればいいのか
今回の案件について「再発防止」は、もちろん考えるべきです。
ただし、当然ながら今回の再発防止を考えるべきは映像化を担う立場の者、 出版社の原作を取り扱う者のなかで行うべきであって、 読者はここに関わりません。
それは「再発防止」を考える立場で働いている方々の問題です。
本件は残念ながら原作者の命が失われるという、最後の段階まで進んでしまいました。現在何があったかを知る術は我々にありませんし、知ることはできないというのは、上記のとおりです。
ただ、そのなかで再発防止を考えるとすると。
クリエイトの現場に必要なコミュニケーションの見直し、作品を預かる立場の者が、どう説明を尽くすのかを見直すことが重要ではないでしょうか。
今と同じやり方では足りないのではないかと言うことを考え直すことができると思います。それは、既存のプロセスを無視思考に進めるのではなく、関わる人間の性質や、考え方を尊重してやり方を考えるということです。
それは、必ずしも本件の経緯を知ることができなかったとしても、できることです。
それでトラブルを100%避けられるとは言えませんが、少なくともベターな方向に改善はできると思います。
その「トライ・アンド・エラー」を繰り返すしかないのです。
経緯を 知ることができなくても、作品制作に関わる立場のそれぞれがプロセスを見直すきっかけができます。
これこそが、今できる再発防止の第一歩ではないかと、私は考えます。
●読者はどうすればいいのか
上記の通りで読者であったり、作品制作の関係者以外は直接的にはできる事はありません。
(ご自分がになっている職業やお仕事で、関係者とのコミュニケーションを見直すということができると思いますが)
少なくとも、漫画と言う制作体制において読者ができることは。
・ 大好きな作品の漫画や作り手に感想を届けること。その人のモチベーションの一助になります。
・ 素晴らしい映像化作品があったら、 それを認めて褒めること。
どのように映像化することが正しいのかということが、制作者にも伝わると思います。
・ 事実がわかっていないことに対して、憶測で特定個人の人格否定をしないこと。言葉は刃物になります。
これくらいだと思います。
それぞれは些細なことで、小さなことかもしれません。
しかし、どれも作品の作り手の心を守る行動です。
あくまで僕の考えにはなりますが、私も読者として心がけます。
以上が、この問題に対しての私が感じた意見です。
繰り返しですが、あくまでいまわかっている「事実」だけを材料にした分析と感想になります。
今後、この問題はどう発展するかわかりませんが、本件に関わった当事者が問題を世間に訴えたい、ということがなければ、これ以上のことを表沙汰にはできないと思います。
私たちができることは、自分の立場を考え、見直すことだけです。
●余談:「経緯を公表できないこと」についての推察
これは推測も交じるので、やや蛇足気味でもありますが……
小学館が経緯を公表したときに、「意図しない攻撃や論調が発生する」と言うことについて、少しだけ補足します。
ドラマや映画、アニメなどの映像は出版と違って、桁違いの金額が動き、クリエイトに多くの人が関わります。そこでは当然それぞれのクリエイトの意思があり、また同じだけミスも起こりえます。
それを擦り合わせ、調整し、ある程度妥協しながらも完成するものが、視聴者や読者が鑑賞する作品となります。
今回の経緯を発表した場合、「ここが悪いところだ!」と単純明快に判断できることは決して無いと思います。
必ずどこかで誰かのミスや、落ち度があります。
一方で時間的な制約・金銭的な制約で「ものすごい妥協をした」ということもあるでしょう。
小学館を含む原作側・日テレなどの映像側、それぞれのミスや落ち度、采配が正しく議論される環境があるならともかくとして、いきなり全員に公開した場合、「悪いと『思われる』ところを叩く」事象は必ず発生するでしょう。
それを考えても、やはり「経緯」は単純なものではなく、その評価は本件関係者の誰にとっても「利」になるとは言い難いのだろうなと推察しています。