考え事・改
照明をやりたいと思ったり,空間がやりたいと思っていた初期は,人間というものを,視覚というものをプロセスを特別化していたように思うし,
その一方で,おざなりにしていたようにも思う
自分の目には自信があった
それは自分自身への理解度の裏返しでもあり,自分の視覚化プロセスの解析に長けているという自負でもあった
そこから時を経て,カメラに再注目した今を考えると,自分の視覚化プロセスの外部化という話になる
目への自信・感性への自信を外部化する,感性の外部化とも言えよう
カメラは自分の目のシミュレータとも言えるだろう
世界をどう捉えているかが問題である
世界が美しいかは置いておいても,世界は生きている,形を持っている,見た目を持っている
その見た目に何を感じたか,を逆問題的に確かめながら,再構成していくツールとしてのカメラがあるわけである
視神経からのシグナルの再構成という観点でカメラを捉え直すなら,やはりspike-cameraのような捉え直しは価値がある
美しさを信号通信に求めるという方向性は面白い
ニューラルレンダラーのように,世界を学習して世界の描き方を学んで出力できるようになるというプロセスは,こう書くと非常に人間的で面白い
しかし,取捨選択・景色からの見い出しに関する自我を持たない故に,創造が担えない
どう捉え直していくかがその人間の特質である
やはり日常的な光の場は光線場(ライトフィールド)的に見られる
波は特徴的な場面だし,素点の集合場(FDTD的)として見るためにはスケールをとても小さくする必要がある
これら波と場は部分の構成および顕微鏡的微視的視点を与えるためには不可欠である一方,それが全体を決めるとはやはり言い難い部分でもある
光線として世界を捉えて行った時に,でも陰影との関係を,美との関係を捉え直すためには,まだ架け橋が足りていない
枯山水庭園的美に見る,ランダムネスの美しさは,自然の持つ美であるとともに,省略の文化,捉え直しの文化,本質の抜き出しである
世界を捉え直して,物理空間の中でモノを使って再構築する能力を持つ者による行為の結果である
それがカメラによる撮影行為の中でいかにして行われるか
撮影の中に,その捉え直しの本質がどう構成されているか
これが重要である
ルックを作るという行為には重要な要素が詰まってくる
ルックを作るということはつまり世界の捉え直しであり,自分の目の・感性の外部化・再構築である
物理的制約に縛られることになりがちな撮影という行為の中で,そのフォーマットの中で,いかにして作り込むかはある種のゲームであり,やはりアートの枠組みとして同じように見ることができる
(キャンバスという制約との対比)
では自分ならどうするか,ということも1つ重要である
研究に落とし込むなら,創造支援という目線が期待できる
逆に自分の作品作りを考えるなら,何をどう落とし込んでいくか
ランダムネス・自然・光・空気感,これらの再構成・再創造をどう行うかのツール・行為の取捨選択がオリジナリティにも繋がってくる
地球を感じたいということと,構図的切り抜きの妙というのはどう関連し,両立し,相互作用するのか
あるがままを撮るのでは,実はダメなのである(当たり前である)
あるがままをあるがままに,無私の激烈を通じて,達することはできるかもしれない,そこに期待するべきなのだろうか
書くことを,見せる文章を意識しすぎた
これではダメである
自分の内側に再度入らなければ