【誤解されてしまった原題】。翻訳家・夏目大さんのインタビューもいよいよ最終回。第3回は、『屈辱の数学史』の邦題決定の経緯やタイトルを付ける難しさについてのお話しです。
翻訳家インタビュー第3回目のテーマは、「誤解されてしまった原題」。書籍『屈辱の数学史 A COMEDY OF MATHS ERRORS』(マット・パーカー著 夏目大訳)で翻訳をされた夏目大さんに、本書原題や翻訳本のタイトル付けの難しさについて聞きました。
(インタビュー:高松夕佳)
——翻訳をしていただいた『屈辱の数学史』は、新聞書評でもたくさん取り上げられてうれしかったのですが、一部では大きな誤解が生じてしまいました。
夏目 タイトルのことですよね。
——ええ。一部の評で、原題が「A COMEDY OF MATHS ERROR」と書かれてしまって。あれは原書のサブタイトルであって、原題ではありません。実際の原題は、「Humble Pi」です。
夏目 日本で出版されている翻訳書は通常、扉の裏ページに原題と原著者名、著作権者名、そして翻訳契約代理人名が記載されているんですよね。
本書の場合も、本扉(表紙を開いて一番最初に現れるページ、邦題が書いてあることが多い)の裏に、ちゃんと「Humble Pi」と書いてある。これはどの本にも共通するルールなので、読者の皆さんにはぜひ覚えておいていただきたい。
高度なブリティッシュ・ユーモア炸裂の原題をどう訳すか
——わりと原題に忠実に邦題をつけたつもりだったので、「原題と内容が合っていない」と評されてしまったのは、ショックでした。ネットにも同様のことを書いている方がいますし。カバーに原題を入れなかったのが誤解の元なのかもしれませんが……[うなだれる編集部]。
夏目 いや、それは仕方がないですよ。というのも、「Humble Pi」という原題自体が非常にトリッキーだからです。
英語で「humble pie」は、「屈辱」という意味の慣用句です。Eat humble pie(屈辱を味わう)などと使われます。数学がテーマの本書では、「pie(パイ)」が「pi(π)」にもじられている。著者お得意のブリティッシュ・ユーモアがここにも入っているのです。
でも、日本で「humble pie」という慣用句を知る読者は少ないでしょうし、pieとpiの言葉遊びも伝わりにくいでしょう。カバーに入れると余計混乱させることになってしまう。入れなかったのは賢明だと思いますよ。
——この本の元出版社はイギリスのAllan Lane社なのですが、Humble Piはアメリカ人にとっても高度なジョークだったようで、アメリカ版(Riverhead Books)には「When Math Goes Wrong in the Real World(数学が現実世界に過ちをもたらすとき)」とかなり噛み砕いた副題がつけられています。
夏目 その気持ちもわかります。わかる人はニヤッと笑えるけれど、そうでなければまったく理解できないタイトルですからね。
「屈辱の数学史」はその点、原題のニュアンスを残しつつ、うまい落としどころになっていると思います。だってこの本は、数学にとって屈辱的な事例のオンパレードなのですから。数学は悪いことをしていないのに、それを扱う人間がミスをしたせいで起きた悲劇の歴史、という意味での「屈辱の数学史」なのです。
……って、この邦題、私がつけたわけじゃないんですけどね。
評者のミスさえ誘う、魅惑の一冊
——はい。編集部が苦心してひねり出したものです。でも、タイトルへの苦情が夏目さんのところにも来てしまったとか。
夏目 よくあるんですよ。訳者がタイトルをつけていると思っている人が多いようです。
私の経験上、自分で邦題をつけたことはほとんどありません。出来上がった本を見て初めて「こんなタイトルになったんだ」と知ることもあるくらいです。
今回の書評では「訳も読みやすくて非常によい。それだけに、なぜこのような日本語タイトルになったのか、よくわからないのが残念である」と書かれたこと自体が、何というか……とても残念でした(笑)。
——ご迷惑おかけして、すみません……。でもこの書評が刺激となって、多くの方に本を手にとっていただけたのかもしれないので。
夏目 そうですよね。おかげで、本書は思いがけず注目を浴びることになった。これも失敗を笑いに変える本書らしい顛末だったと肯定的に捉えることにしましょうか(笑)
おわり
◎重版出来! 好評発売中! 小さな数学のミスにより起こった、おかしくも悲しい出来事の数々を語った一冊『屈辱の数学史 A COMEDY OF MATHS ERRORS』の原書は、イギリス『サンデー・タイムス』紙で数学本初のベストセラー作となった。著者のマット・パーカーは、イギリスでスタンダップ数学者、YouTuberとして活躍している。本書では、その軽快な語り口も楽しんでほしい。
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