【「100分de名著」出演】「ゴールデンカムイ」アイヌ語監修者が語る、不朽の名著とアイヌ文学の金字塔『アイヌと神々の物語』の魅力
◎『アイヌ神謡集』の神髄
――ここ数年、アイヌに関する本が多数発刊され、注目されています。
中川:『ゴールデンカムイ』のヒットによる影響は大きいと思いますし、2020年にはウポポイ(北海道白老郡白老町にあるアイヌをテーマにしたナショナルセンター)が開館し、コロナ禍にもかかわらず、日本全国から実に25万人もの人が訪れました。
今回、『100分 de 名著』で取り上げられた『アイヌ神謡集』に関していえば、2022年は作者である知里幸恵の没後100年で、来年が本書の刊行100年にあたる記念の年です。
――『アイヌ神謡集』はどういう本なのでしょうか。
中川:『アイヌ神謡集』は、アイヌである知里幸恵が19歳のときに書いた本です。カムイユカㇻ(アイヌ民族が謡い継いできた詞曲)13篇が収められ、アイヌ語と日本語の2つの言葉で書かれています。
本書は、アイヌやアイヌ文学に関心がある人なら一度は目を通してしかるべき、という必読の一冊です。たとえば、日本文学研究を志す人なら、「川端康成を1冊も読んだことがない」「夏目漱石では教科書に載っている『こころ』しか読んだことがない」というのは通用しないでしょう。アイヌ文学においては読んでいて当たり前で、読んでいないと「ちゃんと勉強しなさい!」と怒られる、という感じでしょうか。
――本書の特徴とは?
中川:知里幸恵はアイヌ語の母語話者であり、日本語の母語話者でもある、いわゆるバイリンガルです。『アイヌ神謡集』は、ひとつの伝承を両方の言葉で書く、というアイヌの本の先駆けであり、なおかつその後に同様のことをした人はほとんどいません。
大半のアイヌ文学といわれているものは、誰かが語ったものを録音して、それを聞き起こして、別の人が日本語訳を付けています。2つの言語で書かれ、かつその両方ともに非常に読ませる力があるというのが『アイヌ神謡集』の特徴です。
――頭に浮かんだヴィジョンを、一人の人がアイヌ語と日本語に訳しているのですね。
中川:今「訳」という言葉を使いましたが、アイヌ語バージョンと日本語バージョンの2種類で書いた、というほうが近いと思います。アイヌ文学の最高のテキストにして最初のテキストでもあり、他の本とは性質が違います。
◎もう一つの名著『アイヌと神々の物語』
――いっぽう、萱野茂(かやのしげる)さんのように、アイヌとして育った人が聞き書きで訳した本もあります。
中川:ヤマケイ文庫『アイヌと神々の物語』は、ウエペケㇾ(アイヌ民族が語り継ぐ物語)38篇を収録した本です。これは、萱野さんが村のフチ(おばあさん)の語りを録音し、聞き起こして訳を付けているもので、彼自身の語りではありません。その意味では、『アイヌ神謡集』のように、語った人が頭に描いているものと、それを訳した人が頭に思い描いているものが、完全に一致しているとは限りません。
ただ、我々のような研究者からすると、アイヌの語り手が語る土地の風景や儀式の様子については、空想するか、資料で調べて想像するしかないわけです。萱野さんの場合は、自分が歩いた山の中や村の様子、幼いころに見聞きした年寄りたちの言動――そういうものを頭に思い浮かべながら訳していたと思います。我々が近づけない領域であり、遠回しに推測していくしかないものを実体験として描くことができた、という点がもっとも重要で、他の人の訳とは異なります。
――具体的にはどういうところに、明らかな違いがありますか。
中川:たとえば、子熊をカムイモシㇼ(カムイの国)に送り返す「イオマンテ」の場面。萱野さんの場合には、自分で熊を解体し、イナウ(※アイヌが宗教儀礼に用いる道具のひとつ)を削り、頭の飾りつけをするなど、実際に儀礼を取り仕切っていました。そうした実体験に基づく描写は、信頼感が違う。その点が大きいと思います。
◎「カムイ」という不思議な存在
――世界には、さまざまなフォークロアがあります。その中でアイヌの物語の特徴とは?
中川:アイヌの物語に触れて一番面白いと思うのは、人間と人間ではないものを、ほとんど同じように扱うという点です。人間ではないものを「カムイ」と言っていますが、物語を読んでいると、カムイの話をしているのか人間の話をしているのか、わからなくなることがよくあります。それは語り方が悪いのではありません。そもそも、人間と人間でないものをあまり区別してないというのが重要なんです。
キツネが人間の言葉をしゃべっても、何もおかしくはない。たとえば鳥の羽音が人間の声に聞こえる、風のざわめきが人間の言葉に聞こえる、とかね。それは文学的な描写をしているわけでも不思議なことでもなく、実際にそういうものだと感じていたんだろう、と思います。
現代の人はお話だから、物語だから、ということで、現実と切り離して考えるのでしょうが、私が話を聞いていたアイヌのおばあさんたちの日常からすれば、そういうものが聞こえて当然なんだ、と思っているようでした。お前が聞こえないのはしょうがないけれども、昔の人は皆そう聞こえたものだ、という感覚なのだと思います。
アイヌでは、自然の中のあらゆるものが、自分や人間に対するメッセージだというふうにとらえます。たとえば鳥が自分の前をチョンチョンと歩いて近づいてきて、またチョンチョンと先に進む様子を見て、「これは何かを知らせている。この先に行くなということだな……。よし、今日はここで引き返そう」と言って引き返してしまうわけです。
アイヌ文化において、これが今、我々の生活にはない新鮮な部分であり、ある意味では学ぶべきものである。これは私がアイヌ文化に惹かれているところでもあります。
――カムイ(人間ではないもの)は当たり前に存在していると…。
中川:私たち研究者は、そもそもアイヌの宗教観、生活観を共有してはいないので、カムイを信じてはいません。外から見たものを分析して、「こういうふうなことを思っているのだろう」と考察しているだけです。しかし、その中で暮らしてきた人にとって、カムイというのは現実なんです。現実のものとしてそれを書いている、そこに大きな違いがあります。
少し話は飛びますが、私が勤めていた千葉大学に、シャーマンの研究をしているモンゴル人の大学院生がいました。彼女自身がモンゴルでシャーマンの修行をした人なので、シャーマンとしての立場から、シャーマンの研究をしていたわけです。そうすると、我々では想像もつかない、思ってもみなかったようなことを書きます。
どういうことかというと、偽物のシャーマンと本物のシャーマンを区別するときに、彼女は「シャーマンはちゃんとした霊を呼び出さなければいけないのに、偽物のシャーマンは能力が弱いので下っ端(ぱ)の霊しか呼び出すことができない」というんです。
――「偽物のシャーマンか、本物のシャーマンか」と聞くと、偽物のシャーマンは嘘をついている(精霊を呼び出せない)というふうに思ってしまいます。
中川:そう、「呼び出すふりをしていて、実は何もしていない」と思いますよね。でも、シャーマンの彼女からすると、そうではなくて「偽物も霊を呼び出すことはできるが、大したものを呼び出せない」ということなんです。彼女にとっては精霊を呼び出すことは当たり前で、「どういう霊を呼び出すことができるのか」という点でシャーマンの真偽を決めている。その発想は、外側にいる我々にはないわけです。
そういう点でも、萱野茂さんは物語の語り手(話者)と一番近いところにいたのではないかと思います。
◎日本語とまったく似ていないアイヌ語
――中川先生がアイヌ文化に興味を持ったきっかけは何でしょうか。
中川:私はアイヌ語学者ですので、言葉への興味が第一にあります。最大の関心は、アイヌ語の構造です。アイヌ語の何が面白いかというと、なぜこんなに日本語と違うんだろう、ということです。日本語や日本の周辺にあるさまざまな言語と比べて、これだけ構造が違う言語が、なぜ隣り合わせに話されてきたのか。
日本語と同じような文法構造を持っている言語は、世界にたくさん存在します。朝鮮語もそうだし、アイヌ語の北方で話されているウイルタ語や満州語を含めたツングース系の諸言語も、モンゴル系の言語も、みんな基本的に日本語と似ているんですよ。ところがアイヌ語は周りにあるそれらの言語と、根本的に似ていない。なぜこんなに似てないんだ?という疑問が生じるわけです。
――それはなぜなのでしょうか?
中川:定説として、日本語は日本列島の中で出来上がったわけではなく、大陸から入ってきた言語だと言われています。それまで日本列島には、日本語に似た言語はありませんでした。要するに、もともとアイヌ語プラス何らかの言語が日本列島で話されていましたが、そこに大陸から、日本語の先祖が、一般的な考えでいけば弥生文化と共に入ってきたのです。そして、アイヌ語は周りを文法的に違う別の言語で取り囲まれて、現在のように孤立した状態になってしまったということです。
ただ、日本語が入ってくる前に、日本列島ではアイヌ語以外にどんな言語が話されていたのかについてはわかりません。日本語に覆われてしまったので、日本語以外の言語の痕跡がないからです。
◎アイヌ文学の金字塔として
――最後に、『アイヌと神々の物語』と続編の『アイヌと神々の謡』を手に取ったことがない方に向けて、この本の魅力をお聞かせください。
中川:私の考えるこの本の魅力は、読んでいくうちに、アイヌが伝承してきた物語の中に自分が入って行ける、ということです。
かつて、アイヌのおばあさんやおじいさんたちがカムイと共に暮らしていた世界、その中に入って行くためには、本書のどこから読み始めても良いと思います。ひとつひとつの話を読んでいくうちに、最初のうちは自分にとって違和感のある、なんだかよくわからない話だったものが、だんだんとその世界の中に入り込んでいって、アイヌの森の中を歩いているような気持ちになっていくのではないかと思います。
萱野さんは非常に文章がうまく、これほど読み応えがあり、かつ読みやすい話が集められた本はなかなか他にありません。折に触れて好きなように読んでいただくと、いつの間にかアイヌ文化について深く知ることができるのではないでしょうか。
それぞれの話の後に載っている解説も大変面白いので、ぜひ読んでいただきたいですね。
――読者の方から、解説がとてもわかりやすいという声が多く届きます。
中川:萱野さんという方は、小学校卒業と同時に造林・測量・炭焼き・木彫りなどの出稼ぎをして家計を支えていました。同時に、民具をつくったり、子どもたちと昔の遊びを再現してみたり、同世代の人たちよりもアイヌ語についてよく知っていたし、あらゆる側面で実体験的にアイヌ文化を知っていた方なんです。
逆にいうと、実体験的にアイヌ文化を知っている人というのは大勢いただろうけど、そうした人たちの中で日本語の文章がわかりやすく書ける人・語れる人というのは非常に限られていた。萱野さんはアイヌ語と日本語の両方を身につけていた、非常に稀有な人でした。だからこれだけの仕事ができたのだと思います。
萱野さんの書いた解説というのは、私たち研究者が書く解説とは根本的に異なります。我々はいろいろな資料を調べて、ああだろう、こうだろうとつなぎ合わせて「昔はこんなふうにしていたようだ」と、書きます。しかし萱野さんは「(道具を)つくってみたらこんな感じで、このつくり方については誰それに教わった」「この木を使うとこうなる、あの木を使うほうがうまくいく」と、書けるわけです。
我々は、まず木の区別がつきません。教えてもらわない限り、その木が何の木であるかわからない。仮に次に同じ木を見たとしても、それが同じ木かどうかもわからない。そういう実地的な知識・体験的な知識というのは決定的な違いで、文章に確実な差として表れます。
本書は、解説そのものが「アイヌの知識の源泉」みたいなもので、我々研究者にとって何度読み直しても非常に勉強になりますし、一般読者にとってもアイヌの暮らしや文化を味わううえで大きな魅力になっていると思います。
――ありがとうございました。
◎好評発売中
『アイヌと神々の物語』には38篇の物語が、『アイヌと神々の謡』には13篇のカムイユカㇻと子守歌が収録されています。
発刊100年を迎える名著も、これを機会にぜひ。