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川崎雅子俳句の鑑賞⑥ ~一気に昏れ~

一気に昏れ全身で昏れ秋の滝  雅子

『歩く』

川崎雅子昭和56年の作である。掲載されている第一句集『歩く』のあとがきで、雅子はこの句についてみずからこのように語っている。

居直りついでに句集への選句は、わがままを押し通した。例えば序文にとりあげられた”秋の滝”の句は、ある句会で「滝が昏れるのか」と不評であった。しかし、私は白という色をもって一気に昏れていった滝を忘れることができなかった。句集を出さなければ、この句は日の目を見ることはなかったであろう。句集を編むなかには、このような楽しみもあった。

「序文でとりあげられた」というのは、本句集は大井雅人による序文が書かれており、そこにこう評されているのを指す。

一気に、全身でと言う息をつかせない表現からは、夕闇にまぎれず落下する滝の白さが、作者その人のように見えてくる。読む人など意識しない、滝に近づいて行く作者の意志がある。

句自体の表現においても、また句をめぐる背景においても、どこをとっても雅子の芯の強さや俳句に対するひたむきさを象徴する句である。その点では「川崎雅子俳句の鑑賞①」で取り上げた、「男くれば刺せきりぎしの夏薊」に類するものであると思う。

「…昏れ…昏れ」というリフレインからは技巧性を感じられる一方、字余りを含んだ飾り気のない言い尽くしという点で反技巧的とも言える。この絶妙なバランス感覚で成り立った上・中が、ただ落ちていくしかない水の運命であるところの滝という実体をまさに体現しているように、「一気に」下五へと読者の目をいざなうようになっている。
雅人は「読む人など意識しない、滝に近づいて行く作者の意志」と言ったが、たとえそうであっても「読む人」はそれに距離を感じるどころか、無視するわけにはいかない気分になる。そんなエネルギーを持っている句だと思う。

句自体にも、また雅子の自解文にもある「一気に」という言葉のためについ見落としてしまいそうになるが、昏れてゆく滝を見るためには(たとえつるべ落としの秋であろうとも)、それだけの見つめる時間が必要であるということには注意されたい。
読者はいわばタイムラプスの映像のような滝の景を思い浮かべるだけで済むけれども、その裏面には作者がひたすら佇み見つめ続ける瞑想的な時間があるのだ。
そのまなざしの強さというもこの句を受け止めるうえで見落とせないことだと思う。


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