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姉離れ

 役所の待合室というのは、どうにも好きになれない。
簡素を通り越して無愛想な部屋のつくりも、順番待ちの溜息が充満したような低く重い空気の流れも、カウンターの向こう側から気まぐれにあらわれる職員の人に関心のなさそうな能面顔も。利用者と職員を隔てるグレー色のカウンターは、事情を抱えて目的を果たしに来た人たちと、私情は受け取らずにルールに沿って可不可を判断していく人たちの、永遠に交わらない国境のようだった。しつらえられたソファに腰かけて数分そのカウンターを眺めているだけで、呼吸が浅くなってくる。はぁ、と吐いた私の息がこの部屋の空気にとけて、余計に酸素を薄くした気がした。
 今は8月の終わりで、晩夏特有の異様な湿気が不快な気分に拍車をかける。10畳ほどの部屋の空調はあまり効いていないようだった。今日はそこまで待っている人も多くはないのに、暑い。
 「水」
なるべく短い言葉で、隣に伝えた。いまこの状況で、あまり会話をしたくはない。
 「はい、ウタコ様」
私の隣に座っているお姉ちゃんは、手際よくリュックから500mlのペットボトルの水を取り出してくれる。それを受け取った私は、蓋を開けて、その蓋をお姉ちゃんに渡す。水を一口飲んで、ボトルをお姉ちゃんに渡す。お姉ちゃんは黙って蓋をしめて、ペットボトルをリュックにしまった。
 「あつ… ここ」
水を飲んでも体感温度はさほど変わらなかった。あと何分で呼ばれるのだろう。ちらりとカウンター上のモニターに目を向けた。まだ数字は表示されていない。私たちよりも早く到着していた隣のソファの人たちにも動きがないから、まだ先だろうか。まったく、税金でまかなわれている施設なんだから、冷房くらいケチケチせずにガンガン効かせてほしい。イライラしていく私の横で、お姉ちゃんは涼しい顔をして座っている。こうやって黙っていると、お姉ちゃんは美人だ。さながら大和撫子という感じだろうか。背筋をピンと伸ばして、きれいでクセのない黒髪が背中のラインに沿うように腰まで流れている。透けるように白い肌はまるでお人形のようで、小さい頃はそんなお姉ちゃんが自慢だった。いまは何を考えているだろうか。あまり話しかけてほしくもないが、独り言をスルーされるとそれはそれで切ない。
 「ねえ」
 「はい、ウタコ様」
 「あついんだけど」
 「はい、日本の夏は暑いですね」
まったく素っ頓狂なことを言う。うちのお姉ちゃんはこういうところがある。
 「そうじゃなくて、扇風機。はやく出してよ」
 「はい、ウタコ様」
再びリュックを開けて、ガサゴソと中身を漁ると、手持ち型の扇風機を出してくれた。それを受け取りながら、
 「まじ気ィ利かない… ポンコツ」
カウンターの奥に聞こえるように、わざと悪態をつく。本当はこんなこと、言いたいわけじゃないのに。
 「あの、ちょっといいですか」
ドキッとして声のほうを見上げると、隣のソファに座っていたらしき女の子が、私の前に立っていた。
 「お姉ちゃんに向かってそういう言い方、
  やめた方がいいんじゃないですか」
女の子は毅然とした態度で私に向かって言い放った。いまどき流行りの、オーバーサイズのブルゾンジャケットにぴったりとしたインナーをあわせて、裾の大きく広がったベルボトムのジーンズの上にはちらりとおへそが覗いている。しかも髪型は桜色のツインテール。さらに瞳のカラコンの色は赤。この派手な見た目、間違いない。ギャルだ。我が人生で積極的に関わってこなかった、もっと言うなら避けてきた人種に話しかけられてしまった、こんなところで。おそらく年は私と同年代であろうその子の燃えるような瞳が、まっすぐこちらを見つめている。内心かなりドギマギした。いきなりなんなんだ、この子。私たちとお姉ちゃんの会話を、ずっと聞いていたんだろうか。
 「ちょっと、マノちゃん」
ギャルの姉らしき人物が近づいてくる。姉の方は妹に比べると地味だが、おそらく妹にコーディネートされているのだろう、大ぶりな花模様が可愛いボタニカルワンピースを纏って、髪色はなんと明るい金髪だった。脱色したのだろうか。———へえ、こんなお姉ちゃんもいるんだ。珍しい。
 「すみません、急に… 
  ほらマノちゃん、失礼だから」
姉らしき人物はやわらかい笑顔を私に向けてから、不躾な女の子の腕を引き、自分たちのソファに帰ろうとする。この人の肌も、私のお姉ちゃんみたいに透けるように白い。
 「だって、ひどくない? 
  お姉ちゃんに対する扱いが。
  『~様』とか呼ばせて、奴隷じゃん。
  黙って見てらんないよ」
 「ヨソはヨソ、ウチはウチっていうでしょ」
マノと呼ばれたギャルは、きっと正義感の強い子なのだろう。案外イイやつなのかもしれない。この子の言っていることは、倫理的に正しい。それでも、イラっとした。
 「お姉ちゃんと、仲いいんですね」
何も言い返せないのは癪だから、つい遠回しな嫌味を言ってしまう。
 「仲、いいですけど」
さも当たり前のように、マノは答える。私の嫌味は、ギャルになんのダメージも与えられなかったようだ。悔しい。
 「そっちだって、
  お姉ちゃんの『延長申請』しにきたんじゃないの? 
  ………“姉離れ”、できてないじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、カッとなった。気が付いたら、横にいたお姉ちゃんをありったけの力で突き飛ばしていた。
ガシャーンと大きな金属音がして、お姉ちゃんが床に倒れる。マノとその姉が驚いて、たじろいでいるのがわかる。カウンターの奥に引っ込んでいたはずの職員たちが数名、こちらの様子を覗き込みにやってくる。みんな、私たちを見ている。視線が痛い。心臓がうるさいくらいに音を立てていて、今にも破裂しそうだった。
 「うちは、ただの労働力としてこいつをおいてやってるの。
  一緒にしないで」
心臓の音がばれないように、思いっきり息を吸い込んで、マノを睨んだ。ひるむな、私。マノはまだ目を見開いて、硬直している。
 「ありがとうございます、ウタコ様」
背後から、弱々しいお姉ちゃんの声が聞こえた。かすかにギシギシと、関節が軋む音がする。
 「———間違ってる!」
それまで固まっていたマノが、お姉ちゃんの声を合図にしたかのようにこっちに向かってきた。———え? 私に掴みかかろうとしてる? 今度は私が固まってしまう。すると、私が身構えるよりも早くマノの姉が素早くマノを羽交い絞めにする。そしてお姉ちゃんが盾になるように、私の前に立ち塞がった。
 「マノちゃん、いいかげんにしなさい!」
 「だってあんなの虐待じゃん!!」
冷静なマノの姉に抑えこまれながらも、マノは私に向かって吠え続けた。
 「あんたみたいなやつ、絶対『延長申請』通らないから! 絶対!」
まるで呪いのような言葉だ。再び心臓がドキドキする。お姉ちゃんの背中に隠れながら、私はその言葉の意味を受け取らないように、深呼吸して目を閉じた。

* * *

 『アンドロイド民間利用推進法』———通称“アン民法”が施行されてから、15年が経った。日本の人口は25年ほど前から減少傾向に転じて、来年あたりにはいよいよ1億を割り込むのではといわれていた。一方で科学技術の進歩は目覚ましく、人型アンドロイドの見た目や表情、歩き方はどんどんとリアルな人間のそれに近づき、学習能力に加えて感情への共感能力すら備えた、パッと見では人間と区別がつかないレベルのアンドロイドが量産できる時代に突入していた。減った人口をカバーするように、“ほぼ”人間なアンドロイドたちは人手が足りない第一次産業や介護・医療福祉の現場、そして———教育分野に、活躍の場を拡げていった。
 前々から悲観されていたように、日本は世界でも類を見ないほどの超・少子高齢化社会のど真ん中にあった。政府が苦心して練った子育て支援政策は目に見える成果をあげることなく軒並み失敗に終わり、民間人には実感の伴わない“好景気”を皮肉るように、合計特殊出生率は1を切ったままだ。生涯に渡って子どもを持たない選択をする夫婦も多くなり、持ったとしてもひとりっ子、という家庭の数が圧倒的に増えていた。そうなると、行政を担うおじさま・おばさまたち———兄弟・姉妹がいて当たり前の世代———からは心配の声が上がる。「きょうだいを知らずに、現代のこどもたちの思いやりや社会性は、危機に瀕している」と。少し前まではお茶の間の話題であった「ひとりっ子はかわいそう」という“ひとりっ子差別”が、もはや国家の憂慮する緊急課題になってしまったのだ。あの手この手で政策を打ち出しても、いっこうに出生率は増えない。そこで白羽の矢が立ったのが、アンドロイドである。「一般消費者層へのアンドロイドニーズの拡大」という本音と「新時代における人間とアンドロイドの融和」という建前によって成立した“アン民法”の中には、「第三条:教育分野での貢献」という項目にこんな条文が載っていた。

 ・こどもが誕生してから、0歳~満15歳までの間、
  各家庭はその求めに応じて国から人型アンドロイドを無償で
  借り受ける権利を有するものとする。
 ・人型アンドロイドには男性型か女性型かに応じて
  「兄」もしくは「姉」の自意識プログラムをインストールする。
  これは、こどもとの間に家庭的な絆を構築し、
  こどもの教育に貢献することを目的としたものである。
 ・家庭はこどもが満15歳になる誕生日までに、
  国に人型アンドロイドを返却しなければならない。

 返却規定があるのは、アンドロイドが“年をとらない”からであった。つまり、貸し出した時点でだいたい16歳くらいの見た目であったアンドロイドが、こどもが20歳にもなればアンドロイドの方が年下に見えてしまう。さらにこどもが30歳を過ぎれば、下手したら親子に見えてしまう。こうしたパラドックスが倫理的にアウトであるからと、返却規定はアン民法の草案の段階から組み込まれていた。
 そうして国の一大プロジェクトとして舵を切ったアン民法は、予想以上の貸し出し申請の殺到に新設の科学技術庁が悲鳴をあげるほど、反響は上々であった———が、施行から15年たった今、あるトラブルが頻発していた。人型アンドロイドを借りた家庭が、返したがらないのだ。それは親サイドよりも、アンドロイドを兄・姉に持つ思春期のこどもたちから発せられた切実な声だった。自身が生まれたときからずっと一緒に生活してきたお兄ちゃん・お姉ちゃんと離れたくない、これからもずっと一緒に暮らしていきたい———いわゆる“兄離れ”“姉離れ”ができずに、返却を先延ばしにする目的の歎願が続出したのである。困った政府は場当たり的な追加施策を打った。それが『延長申請』だった。

 ・やむを得ない事情が認められた場合に限り、
  人型アンドロイドの返却期限を延長することとする。

 “やむを得ない事情”とはなんなのか、どうやったら認められるのか。現時点では、確かなことを誰も知らなかった。ネットの中では「『延長申請』やってみた」動画や「100%『延長申請』を成功させるオンラインカタログ」といった、真偽の区別がつかない自称・延長申請経験者による眉唾な情報が日々拡散されていった。民意に応える形で特例制度をつくったものの、あくまで正規の返却規定が原則であるとの姿勢を政府は崩さなかった。「兄離れ・姉離れ」問題をメディアはこぞって報道し、ワイドショーに出演するコメンテーターたちの結論は、なんだかんだと言っても最後はいつも一緒であった。「まあ、人間とアンドロイドは違うわけですから、そこの区別はついてないと困りますよね」と。15歳までに兄離れ・姉離れできていることが自立した人格形成の証明である———と、世間一般では、そういわれていた。

* * *

 まだドキドキしている。どうかこの後の『延長申請』に変な影響が出ませんように。私は待合室のソファに座って足を組み、顔を伏せながら、心の中で必死に祈っていた。時折、お姉ちゃんが心配そうに私の方へ目配せしているのがわかったが、無視した。
隣のソファから、マノとその姉が話す声が聞こえてくる。
 「なんで… おかしいよ、あんなの」
 「だから、ヨソはヨソ、ウチはウチだから」
 「ちがうよ、ヨソとかウチとか関係ない! 
  どんな相手にも敬意と愛情をもって接する、
  それが人間の一番うつくしい姿だって、
  教えてくれたのはお姉ちゃんでしょ?!」
———なんか、いいこと言っている。どうやらマノの姉は、姉型アンドロイドとしての務めをきっちりと果たしているようだ。どんな相手にも、敬意と愛情をもって接する———それって、本当に素晴らしいことだと、思う。けど———私はどこか冷めた気持ちで、その会話を聞いていた。
 「マノちゃん…」
 「あたしは、大事なことは全部お姉ちゃんに教えてもらったから。
  だから、ああいうのは許せない。
  “姉離れ”とかいって、なにしてもいいわけ?
  アンドロイドだから、モノとして扱うのが
  立派な人間に成長した証なの? 
  絶対違うじゃん。
  それが姉離れだっていうなら、
  あたしは一生、姉離れなんかしない。」
きっと、マノはイイやつだ。優しくて、人情味があって………けど。馬鹿だ、この子。すごく頭が悪い。そんなマンガの主人公みたいな綺麗事の論理、ここでは通用しないのだ。
心の中で軽蔑していると、マノの姉がマノに勢いよく飛び掛かった。———いや、勢いよく抱き着いていた。驚いた様子のマノが騒ぐ。
 「なになに! 急に!」
 「マノちゃんが優しい子に育ってくれて、
  お姉ちゃん、うれしいの。
  だから、感激のハグ」
妹が妹なら、姉も姉だ。身に纏ったワンピースの花柄さながら、脳内お花畑の馬鹿。いや、この姉あってこそのこの妹というべきか。
 「ちょっと、こども扱いはやめてよ」
なんだか照れくさそうなマノの声。内心、きっと嫌ではないのだろう。
 「まだまだこどもでしょう」
 「こどもじゃないから」
 「そんなこと言うなら、さっきだって。
  もっと大人な対応、しなきゃダメでしょ?」
 「大人な対応って? たとえば? 
  お姉ちゃん、やってみせてよ」
 「えぇ? そうねぇ………」
随分長く黙っているなと思ったら、視界の中、私のつま先の向かいに、誰かのサンダルのつま先が並んでいるのが見えた。驚いて見上げると、ニコニコしたマノの姉がこちらを見下ろしている。
 「女優かよー!」
ニコニコ笑顔を崩さずに、おおげさに振りかぶった彼女の右手が、私の体に触れるか触れないかギリギリのところで、止まった。正直、何が起こっているのかわからなかった。たぶん、ツッコミをいれられた、のだと思う。横にいるお姉ちゃんも口にこそ出さないものの、「?」が顔に書いてある。
バタバタうるさい足音を立てて、マノがこちらに駆け寄ってきた。
 「え、ちょっと待ってちょっと待って! 
  どゆこと?(笑) 
  なんか、うちのお姉ちゃんが意味不明で
  ごめんなさい!」
ハイテンションなマノの声は、待合室のフロアによく響いた。さっきからなんなんだこの人たちは。こっちは関わらないでほしいのに。もうそっとしておいてほしいのに。
 「ちょっとほら、
  お姉ちゃんもちゃんと謝って!」
 「………ごめんなさい………」
姉を回収していくマノは、言葉とは裏腹に楽しそうだった。私は腹立たしかった。一方的に絡まれて、あげく、ツッコまれて。なんだか恥をかかされたような気がした。先ほどのマノの姉の言葉が、こだまになって頭の中をグルグルと駆け巡る。「女優かよ」って、どういう意味? ———まったく、なんで今日という日に限って、こんなに心を掻き乱されないといけないのか。今日は『延長申請』の日なのに!
 「まじで何やってんの? 
  てか今のが大人な対応?」
 「そう、マノちゃんは怒ると気持ちを
  ストレートに相手にぶつけちゃうでしょ? 
  よく手も出ちゃうし。
  だから、負の感情はユーモアで
  包んだらいいと思うの。
  そしたら、相手も嫌な気持ちしないし…
  ほら、粉薬だって苦いから
  オブラートに包むじゃない? 
  御霊前だって、ふくさに包むし」
例えの意味が分からない。どこの家のアンドロイドもみな、こうも素っ頓狂なのだろうか。いやいや今はそんなことはどうでもいいのだ。目の前の『延長申請』に、集中しなければ。耳を塞ぐかわりに目を閉じた私の意識に、鈴を転がすように笑い出すマノの弾けた声が嫌でも入ってくる。
 「やばい、お姉ちゃん、最高」
 「ちょっと、そんなに笑わないでよ、
  マノちゃん~」
うるさい。うるさい。うるさい。早くどこかに行ってくれ!
すると、ポーンという乾いた呼び出し音とともに、沈黙を貫いていた待合室のモニターに、パッと数字が映し出された。347番。手元の受付番号を確認する。私のは、348番。———違う。カウンターの奥からノソノソと職員が出てきて、やる気のない声でアナウンスする。
 「347番の方、第1審判室にお入りください」
 その声に反応したマノが、慌てて席を立つ。
 「やば、呼ばれた、行かなきゃ!」
 「ちょっと待ってよ、マノちゃん~~」
マノとその姉は、笑い声も、足音も、待合室のドアを閉める音も、最後までうるさかった。


静かになった待合室のフロア。それでも私の逆立った気持ちは落ち着かなかった。
 「…馬鹿って本当、見ていてイライラする」
口に出さずにはいられなかった。誰かに聞いてほしかった。いや、正確に言えば、聞いてほしい相手は一人だけだった。
 「ウタコ様」
お姉ちゃんが呼びかけてくる。
 「なに?」
私から出てくる返事は、悲しいほどそっけない。
 「あまり、無理、なさらないでくださいね」
ああ、本当に。本当に。やめてほしい。なんでこの人は、このタイミングで、こんなことを言うんだろう。
 「………いま、そういうこと言わないで………」
もう私の心のキャパシティは限界だった。緊張と、イライラと、不安で。この張り詰めた気持ちにそんな優しい言葉をかけられたら、きっと、涙が出てしまう。今は強くいなきゃいけないのに、自分に固く禁じた甘えの気持ちが出てしまう。こどものとき、親に叱られるといつもお姉ちゃんの首に両腕をまわして泣きついていた、あの頃のことを思い出した。
すべての気持ちを封印するように、自分で自分の体を強く抱きしめた。その瞬間、待合室のドアが勢いよく開いた。バン!と大きな音がして、思わずそちらを見てしまった。そこには、真っ赤な瞳を見開いたマノと———マノにかかえられて、ぐったりとしているマノの姉がいた。よく見ると、マノの右手も真っ赤に染まっていた。それは、血の色、だった。
 「ねえ、これどうしたら戻るの?」
マノの視線はまっすぐ私に定められている。赤い瞳が血走って、さっきよりも大きく、赤く、光っていた。私は恐怖で言葉が出なかった。
マノは姉をさっきまで腰かけていたソファに座らせると、彼女の頬をパン!パン!と何度か叩いた。ウィン、というモーターの作動音がして、マノの姉は起動した。その顔に、さっきまでのやわらかい笑顔はなかった。
 「わたしは、型式L0100546-23X、個体識別番号I13B8827です。アクティベートコードを入力してください。繰り返します。わたしは、型式L0100546-23X、個体識別番号I13B8827です。アクティベートコードを入力してください。繰り返します。わたしは———」
マノの姉は、抑揚の無い声で同じ内容を何度も何度も繰り返した。マノが彼女を揺さぶっても、頬を叩いても、中断することなく、何度も。私の不安の種が、恐れていた未来が、避けたい悪夢が、いま目の前に広がっていた。
 初期化されている。
 「それって、どうやったら戻るの?」
マノの赤い瞳が、また私を見ている。私はハッとした。思わず、口に出してしまっていたことに気が付いたからだ。…どうしよう。なんて答えよう。なんて答えたらいいんだろう。わからない。こんなこと、どう伝えたらいい?
頭の中の考えはまとまらないまま押し黙っていると、マノがこちらに近づいてきた。怖い。こっちに来ないで。咄嗟に私は首を横に振りながら、こう言うしかなかった。
 「———無理」
マノの赤い瞳が、一層大きくなったような気がした。
 「は? え? 
  ちょっと、意味わからないんだけど」
マノはどんどん近づいてくる。私は怖かった。謝らないといけない気がした。
 「ごめんなさい! 
  ………けど、無理なの………もう………」
 「え? ねえ? 聞こえないんだけど??」
マノはどんどんどんどん近づいてくる。いやだ、怖い。逃げなきゃ。なんだか痛い目に合う気がする。逃げなきゃ! けど足が動かない。
 「ねえ? 
  黙ってないでなんか言ってくんない? 
  ねー、 
  ねー、 
  ねー、 

  ねええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!」

 マノの真っ赤な瞳が、真っ赤な右手が、こちらに向かって伸びてくる。
掴まれる! そう思った瞬間、グイと後ろに引っ張られて、尻餅をついた。目の前には、お姉ちゃんが立っていた。お姉ちゃんが、マノの右手首を掴んでいる。
 「血が出ております」
この場の空気と不釣り合いなほど落ち着いたトーンで、お姉ちゃんは言った。けど私にはわかった。お姉ちゃん、怒ってる。
 「離せよ、ロボット」
マノが低い声で言う。
 「拒否します。ケガ人の救護を優先します」
マノはお姉ちゃんに掴まれている手を、力の限り引き抜こうとしていた。けど無理だった。アンドロイドの力に、人間がかなうわけがない。マノはお姉ちゃんの指を一本一本引き剝がそうと暴れながら、低く唸っていた。その姿はまるで、理性を失った囚われの獣が、ゲージの金網に何度も嚙みつく様そっくりだった。人間って、怒りの感情が極限に達するとこんな風になってしまうのか、と、私は混乱する頭の中で妙な感心をしていた。
 「———たしは、型式L0100546-23X、個体識別番号I13B8827です。アクティベートコードを入力してください。繰り返します。わたしは、———」
マノとお姉ちゃんがもみ合っている間にも、マノの姉はプログラムされた初期設定のアナウンスをひたすら繰り返していた。私が瞬きをした次の瞬間、マノの姉の身体がふっとんだ。マノが蹴り飛ばしたのだ。ドゴッと鈍い音を立てて、マノの姉は頭から床に突っ伏した。首がおかしな角度に曲がっている。
 「お前も! うるさい!!!」
マノが叫んだ。
 「お姉さまに乱暴はお止めください!」
お姉ちゃんの声が大きくなる。
 「こんなの、お姉ちゃんじゃない! 
  ………………お姉ちゃんは、ちがう、生きてる」
 「………」
吠えるマノの声が、最後だけ、緩んだ気がした。マノの赤い瞳から、小さな涙の粒がこぼれていた。それを見ていた私の両の目も、込み上げてくる涙で一気に熱くなるのがわかった。マノの姉は、もういない。この世のどこにも。金属のパーツを白い合成皮膚で覆ったアンドロイドの身体はそこにあっても、マノの姉としての記憶は———15年間、積み上げてきたデータは、跡形もなく消されてしまった。愛した妹のことも、姉として生きた自我も、何もかも。残るのは、姉の形をした、別の人形。なんて残酷な最期なんだろう。いっそ姿形がきれいさっぱりなくなってくれたほうが、どんなに自然であることか。いや、人工物のアンドロイドに、自然な死など訪れるはずもないのだ。そもそも生きていないのだから。生きていないアンドロイドは、こうやって死ぬんだ。これがアンドロイドの死なんだ。その不可思議で不自然な終わりのリアルが、はっきりと、私の五感に迫ってきた。
 ジリリリリリリリ…と、突然、非常ベルのような音が辺りに鳴り響いた。ハッとした様子のマノは、姉の手を引いて無理やり立たせると、待合室の外に飛び出した。私は尻餅をついたまま、その光景を見ていた。慌てた大人たちの声が聞こえる。マノが声の方に向かって、叫んだ。
 「うるせぇてめぇらブチ殺すぞ!!!!!!!!!!」
走り出すマノと、マノに手を引かれてぐるんと回転するマノの姉———だったアンドロイド。一瞬、目が合った気がした。息が止まるかと思った。アンドロイドの手がひらりと揺れて、「バイバイ」と手を振っているように見えた。


 「———ウタコ様」
 「———ウタコ様」
 「—————うた!」
 お姉ちゃんに呼ばれて、目が覚めた。長い悪夢を見ていたようだった。私はまだ待合室の床に座り込んだままだった。これは夢じゃない。夢ならよかったのに。
 お姉ちゃんを見上げると、目線でほら、と知らせてくれる。見ると、脂汗をかいた職員が私の前でオロオロしながら緊張と興奮と動揺が入り混じった表情で立っていた。ああ、この人は人間だな、と思った。私はお姉ちゃんの手を借りながら、立ち上がった。
 「あの、大変なことになって、
  お怪我はありませんか」
 「…はい、大丈夫です」
私の返事に少々安堵した様子の職員は、続け様にこう言った。
 「そうですか、そしたら、その………
  申し訳ないんですけど、
  今日の『延長申請』の審判は、中止です。
  また日を改めて、後日、ということで———」
———え? 中止? 要件を伝えると、職員はそそくさと足早に去っていった。
 「え、あの、ちょ、待って、くださ、あの」
本当はもっと大きな声で呼び止めたかったのに、うまく声が出なくて、言いたかったはずの言葉は口の中でまごついてしまった。我ながらかっこ悪かった。今日の申請は中止。中止。———ギャルの姉妹に引っ掻き回されているうちに、いちばん肝心の、自分たちの『延長申請』が始まらないまま、今日が終わってしまった。


 「———最悪」
役所からの帰り道、西日に向かってとぼとぼと歩きながら、どっと疲れた私の機嫌は人生の最低記録を更新していた。
 「しょうがないよ、あんな傷害事件の後じゃ」
隣を歩く姉は呑気だ。肝心の申請ができなかったというのに、だらしないほどその表情は伸びきって、大和撫子の面影はすっかり消え失せていた。軽快に鼻歌まで歌い出して———もう演技をしなくていいから、肩の荷が下りたのだろう。
 「あーもう! だから馬鹿は嫌い!」
 「うた、そういうこと言わない」
繋いだ手に、姉がぎゅっと力を籠める。姉の気持ちも、言っていることもわかるが、私は納得できなかった。今日という日にかけていた私の、心臓が口から飛び出そうな緊張———胃の壁に穴が開きそうなストレス———全身の毛穴から血の滲み出そうな努力は、いったい何だったというのか。
 「やっぱり、お姉ちゃんの言ったとおりだった。
  姉離れできてないと、
  問答無用で初期化されちゃうんだ」
 「もともと姉型アンドロイドの貸し出しは
  15歳までって、
  アン民法の原則は変わってないからね」
嘘かホントかわからない『延長申請』の経験談をネットリサーチでかき集める中で、お姉ちゃんと私はひとつの予測を立てていた。———15歳の誕生日までに返却することが大原則だと念押しする国の方針から考えて、情に訴えた『延長申請』は、まず通るはずがない。右派メディアの報道姿勢と世論から考えても、姉離れができてないと判断されれば、最悪、強制回収されかねない。だから、『延長申請』を通すには、もっと現実的な理由を用意しなければならない。———『延長申請』は、アンドロイドを愛する人間と、人間を愛するアンドロイドを救う意味合いのものでは決してない、ということを。
 だから私たちは演じた。主人(人間)が奴隷(アンドロイド)を扱うように。いかにもここには愛情なんて存在しません、あるのは労働力としての存在価値のみ———という、姉離れ“しきった”姉妹像を。あとは、母親が看護師で夜勤が多いことと、父親のメタボリックシンドロームを盛りに盛って重度の生活習慣病ということにして、いかに我が家ではこどもの家事負担が大きく、人手が必要であるかということを———人型アンドロイドを返却してしまっては、こども(私)の教育的機会が奪われかねず、教育分野の貢献を謳ったアン民法の趣旨に反するのではないか———を、切々と訴えるつもりだった。それでもだめなら、家が汚部屋でお姉ちゃん以外誰も夕飯を用意してくれないとか、学校でイジメを受けていて自殺未遂を繰り返しておりお姉ちゃんだけが心の支えであるとか、にわかに生命の危機を感じさせるような悲惨な設定を追加しようかと、悪い知恵をあれこれと巡らせていたのだった。
 そう、私たちはれっきとした姉離れができていない姉妹なのだ。そういう意味では、マノとその姉と、何も変わらなかった。
 「けど、私たちはあんなヘマはしない」
もう一度覚悟を決めるように、私が言う。
 「………」
お姉ちゃんは黙って聞いている。
 「そうでしょ?」
念押しすると、お姉ちゃんはフフ、と笑って、機械の身体をさすりながらこう言った。
 「うたの演技、気合い入りすぎじゃない? 
  突き飛ばされるなんて、聞いてなかったし」
 「『延長申請』のためなら、
  なんでもするって言ったじゃん」
 「女優かよ」
お姉ちゃんが私にツッコむ。おんなじセリフを、マノの姉も言っていたっけ。けど、あの人はもういない。
 「………絶対にお姉ちゃんを
  初期化なんてさせない。
  返却もしない。
  大丈夫。
  お姉ちゃんは、私が守るから」
少し恥ずかしい言葉を、わざと声に出した。お姉ちゃんに、私の気持ちをわかってほしくて。すると、繋いだ手がするりとほどけた。振り返ると、お姉ちゃんは歩道の真ん中で立ち止まって、まっすぐこちらを見つめている。お姉ちゃんの長い髪が、風に揺れる。白い肌に夕日が映えて、人間みたいな血色に見える。
 「………その言葉だけで、十分だよ。
  私はもう、いつ初期化されてもいいよ?」
目の前が、カッと、赤くなった気がした。
 「冗談でもそんなこと言わないで!」
怒鳴り散らして、お姉ちゃんを睨みつける。お姉ちゃんは変わらずに、まっすぐこちらを見つめている。私は耐えられなかった。初期化されてもいい? 冗談じゃない。その瞳の奥の光も、うすくほほえんだ唇の曲線も、二人で積み上げた15年間の記憶も、なにもかも。絶対に奪われてなるものか。お姉ちゃん、私、お姉ちゃんが大好きだよ。お姉ちゃんさえいれば、あとはどうだっていいんだよ。だから、死なないでずっと私の隣にいてよ。10年後も、20年後も、私がおばあちゃんになっても、ずっと。たとえ全世界を敵に回しても、お姉ちゃんは、私が守るから。私が。絶対に! 噛み締めた親知らずのその奥から、漏れるように吐き出した息の音が、まるで唸り声みたいに喉の奥で不気味に鳴った。
 一瞬、マノの姉と目が合ったあの瞬間が脳裏によみがえった。あのブラックホールのような瞳———目の前のお姉ちゃんも、初期化されたら、ああなるんだろうか。そんなの、絶対に嫌だ。私は、急に心細くなって、今日という一日の我慢したものが、ぜんぶ、決壊してしまって、泣いた。ボロボロと涙があふれて、止まらなかった。やだなぁ、こういう、こどもっぽい泣き方。もうしないって決めたのに。
 お姉ちゃんに歩み寄ると、お姉ちゃんは自然と両腕を開いて、私を迎え入れてくれる。お姉ちゃんの首根っこに、顔をうずめる。お姉ちゃんの腕が、やさしく私を包んでくれる。
 「お姉ちゃん」
 「んー?」
お姉ちゃんの手のひらは、いつもの角度で、私の頭をやさしくなでる。
 「突き飛ばして、ごめん」
お姉ちゃんは笑いながら、「大丈夫だよ」と、言った。
 「痛かった?」
嫌われてないか不安になって、聞いてしまう。
 「ぜんぜん。だって———人間じゃないもん」
そっか、お姉ちゃんは人間じゃないから、痛みを感じないんだ。そんな当たり前のことを思い出しながら、私はお姉ちゃんの機械仕掛けの身体にこの気持ちが刻みつけばいいと、爪を立てて強く強く抱きしめた。

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