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今日・樺太・真岡で、 8月21日

 山澤連隊長は真岡住民の豊原方面への非難を円滑にすすめるため、可能な限りの兵力を熊笹峠に集結させることとした

〇21日午前3時
第9中隊が逢坂の連隊本部に到着、熊笹峠に派遣

〇午前5時
藤田第三大隊長も到着、第9中隊と共に熊笹峠に派遣し、持久戦を行うよう命じた。

〇午後1時半
菅原歩兵砲大隊長らが熊笹峠に到着。
全将兵を集め、訓示。
「我々軍人は、樺太島民の為、この峠を死守する。敵を此の峠より一歩も入れてはならぬ。住民全員が北海道に渡るまで戦うのが我々軍人の務めで有る」

〇夕方時点の日本軍の兵力
第9中隊70名
第2中隊20名
第1機関銃中隊30名
輜重隊26名
衛生隊20名

〇午後7時30分過ぎ
ソ連軍は第1大隊の一部を追うように熊笹峠に接近し、既に航空機による攻撃回数は増えていた。
迫撃砲による援護射撃の下、山道を十数台のトラックに乗車したソ連兵が自動小銃を乱射しながら攻め上ってきた。

〇日本軍
第3機関銃小隊の2挺の重機関銃が、トラックを狙い撃ち
トラックから飛び降りたソ連兵は、荒貝沢方面に後退。
ソ連兵の行動は活発で。その晩3~4回このような戦闘が繰り広げられ、その都度撃退された。

〇ソ連軍の砲撃の激しさは一行に変わらず。夜通し火柱が峠に立った。
一晩中、ソ連軍は小グループで熊笹に隠れながら日本軍の陣地に接近し攻撃をし続けた。
それは、陣地船というより遭遇戦のようであった。
特に、大隊本部広報の中川通信小隊に砲撃が集中していた。

(参考文献:証言・南樺太 最後の17日間 藤村建雄著)

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