決してない:聖書をめぐる旅 4/7
4/7 (木)
おはようございます。今朝の札幌もいい天気になりそうです。
自分はそういう者では「決してない」とヨブは、自らの潔白を訴え、語りつくしました。イザヤは、天国に触れ、自らのミッションを受け入れています。
ヨブ記31章
7わたしの歩みが道を外れ
目の向くままに心が動いたことは、決してない。
この手には、決して汚れはない。
もしあるというなら
8わたしの蒔いたものを他人が食べてもよい。
ヨブは語り尽くした。
31章になって、ようやくヨブは語りつくしました。
彼の言葉は、自分は決して神様を裏切るものではない、と何度も語っています。
確かにヨブは、自分なりに正しい道を歩んできたのかもしれません。しかし、自分は正しいという人には、もう誰もアドバイスはできません。
また、変わる可能性もありません。
人間が神様ではなく、不十分な存在であることを認められると、1%でも間違うことがある存在であることを認められると、変わる可能性もあります。
欠けた器の中に光を入れると、欠けたところから光が外にもれますが、まったく欠けていない器からは光はみえません。
イザヤ書6章
6するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 7彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。
誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがここにおります。
わたしを遣わしてください。」
イザヤが幻で天国の様子を見たときの様子です。
天国に触れると、自分の汚れに気付くものなのだなあと思いました。
彼がけがれていると自覚したのは、唇。すなわち言葉を発する器官です。
それが、炭火で清められ、神様の言葉を聞いたイザヤは、
すぐに応えています。
「わたしがここにおります。
わたしを遣わしてください」
こうして、イザヤは民に警告を発する役割を担います。
私も、今一度天国に触れ、清められ
神様の目的に立ち返って、遣わされていることを受け止めたいと思います。