見張りを立て:聖書をめぐる旅 5/16
5/16(月)
エレミヤの時代のユダの民の姿を見ると、神様がするように言われたことにことごとく反逆しています。人間は神様と共に歩むようにつくられたはずなのに、なぜこうも反逆してしまうのでしょうか?
エレミヤ書6章
8エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。
さもないと、わたしはお前を見捨て
荒れ果てて人の住まない地とする。」
10誰に向かって語り、警告すれば
聞き入れるのだろうか。
見よ、彼らの耳は無割礼で
耳を傾けることができない。
見よ、主の言葉が彼らに臨んでも
それを侮り、受け入れようとしない。
17わたしは、「あなたたちのために見張りを立て
耳を澄まして角笛の響きを待て」と言った。
しかし、彼らは言った。
「耳を澄まして待つことはしない」と。
18「それゆえ、国々よ、聞け。
わたしが彼らにしようとすることを知れ。
19この地よ、聞け。
見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。
それは彼らのたくらみが結んだ実である。
彼らがわたしの言葉に耳を傾けず
わたしの教えを拒んだからだ。
21それゆえ、主はこう言われる。
「見よ、わたしはこの民につまずきを置く。
彼らはそれにつまずく。
父も子も共に、隣人も友も皆、滅びる。」
今日のキーワードは「見張り」です。
これは、1章にも出てきた言葉ですが、神様と同じものを見る者という意味があるそうです。
神様は、ご自身と同じ視点を持ち、神様に耳を澄ます者を求めておられます。神様が「行け!」という合図を待つ者を求めておられます。
しかし、ユダは神様の声を聞いてもそれに応えず、見張りの役割も果たしませんでした。
教会の祈りの中で、目を開き、耳を開いてくださいという祈りがあります。いつでも、神様が見ているものを見て、いつでも神様の言葉に耳を澄ます者でありたいと思います。
昨日の礼拝では、「オセロの石」を思わされました。白い石と白い石に挟まれた黒い石は、白に変えられます。それは、挟まれると挟まれた色の石に代わるのがオセロのルールだからです。私たちは、白い石として、この世に遣わされています。神様と私たちで、黒い石を挟むためです。白い石が白い石の傍にあっては、その働きをすることができません。周りが黒い石ばかりのところに遣わされると不安になりますが、私たちの反対側には必ず神様がおられます。その間に挟まれる黒石が多ければ多いほど、根こそぎ白石に変えられます!
エレミヤ書7章
3イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 4主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
8しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
17ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。 18子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている。
エレミヤの警告は、自らを正すことをユダに求めています。自分が神様の民だという者たちが、神様をないがしろにしている。神様に仕えているという者たちが、異教の神である天の女王のために、ささげものをしている。この背信を指摘されています。天の女王は地域ごとにさまざまな名前で呼ばれています。そして、その背後にはサタンが存在しています。
出エジプト記で、モーセが神様と語っている40日40夜の間に、イスラエルの民が金の子牛をつくり、偶像礼拝をしていた時は、その罪のために3000人が殺されました。神様にとって、自分以外のモノを神様のように扱うことは許されないことであり、ユダの民族を導く真の神様に立ち返るように望んでおられます。