主ではない王:聖書をめぐる旅 8/27
8/26(金)
イスラエルの民が王を求める様子が描かれています。客観的に見るならば、愚かな民に見えますが、私たちはこのような選択をしがちです。
サムエル記上8章
7 主 は サムエル に 言わ れ た。「 民 が あなた に 言う こと は 何 で あれ、 それ を 聞き入れよ。 なぜなら 彼ら は、 あなた を 拒ん だ のでは なく、 わたし が 王 として 彼ら を 治める こと を 拒ん だ の だ から。
→この章では、サムエルの晩年、息子たちが神の道を歩まず、率いてきた民も主なる神様ではなく王を求めるという愚行が描かれています。王を求めるということは、神様を拒んだという民の背信です。神様は、民の望む通りにせよとおっしゃいます。ただし、王の権利を民に伝えたうえで、と。王の権利とは、徴兵すること、税金をとること、土地をとること、民は王の奴隷になることなどがあります。このことを伝えられても、他の民族のように王を立ててほしいとイスラエルは言います。地上の王を求め、万軍の王を拒んだのです。
黙示録6章
そして、 彼ら の しも べ 仲間 で、 彼ら と 同じ よう に 殺さ れよ う と し て いる 兄弟 たち の 数 が 満ちる まで、 もう しばらく の 間、 休ん で いる よう に 言い渡さ れ た。
→ここでは、7つの封印が次々と解かれる様子が描かれています。白い馬、赤い馬、黒い馬、青い馬、それぞれが現れ地上に禍いが起こります。これらは大患難時代に起こることの霊の世界で起こされていることが描写されているようにも思います。その中でも5つ目の封印を解くと、イエスキリストを信じる故に殉教した人たちの姿が祭壇の下に現れます。そして、「なぜこのようなことがおこるのですか?」という問いに対する声が上の聖書の箇所です。私にはわかりませんが、信じる者の犠牲がある一定の数にまで必要ということかと思います。これは、どういうことなのでしょうか。