すべての人の過越しのいけにえ:聖書をめぐる旅 2/1
2/1(火)
ヨシヤ王がサムエルの時代以来の壮大な過越しの祭を実行しています。初子を贖うことから、イエスキリストの十字架と私たちの関係に思いを巡らせました。詩編142編からは、「わたしの分」について考えてみました。
歴代誌下35章
4あなたたちはイスラエルの王ダビデの書とその子ソロモンの文書にのっとり、組分けどおりに家系ごとに準備を整え、 5兄弟である民の家系の区分に従い、またレビ人の家系の組ごとに聖所に立て。 6過越のいけにえを屠り、自分を聖別し、あなたたちの兄弟が、モーセを通して伝えられた主の言葉に従って祝いができるように整えよ。」
7ヨシヤ王は民のために羊、小羊、子山羊を提供した。これらは皆、そこにいるすべての人の過越のいけにえのためであり、その数は三万匹、牛も三千頭に及んだ。これらは王の財産の中から提供された。
→ヨシヤ王によって、過越しの祭りが行われました。
これは、エジプトを脱出するときに、子羊の血を鴨居に塗ったイスラエルの民の家だけが、初子を討たれずに過ぎ越されたことを記念した祭りです。
出エジプト記13章を読み返すと、この過越しに際して、人間も家畜も初子は神様にささげなければならないと規定されています。しかし、人間の子どもを殺すわけにはいかないので、代わりの動物がささげられています。このヨシヤの時代の過越しの祭りでも、人間の初子の代わりに贖いがなされています。
私は、今まで自分の命は自分がいただいたものだと思っていましたが、この贖いのことを知ると、初子である私のためにも、イエス様は十字架の贖いとなってくださったのだということを思い浮かべます。
いや、神様の独り子イエス様が、信じるすべての人々の長子として贖われるという、人類全体の救いがここにあるように思いました。
それゆえ、私たちは自分のための人生から解放されて、神の子イエスキリストの人生を、この時代に生きる恵みにあずかっています。
詩編142編
6主よ、あなたに向かって叫び、申します
「あなたはわたしの避けどころ
命あるものの地で
わたしの分となってくださる方」と。
→ダビデは、ここで重要な告白をしています。
神様に向かって、あなたこそ「わたしの分」となってくださる方、と。
イスラエル民族が、ヨルダン川を渡りカナンの地に入った時に
その土地を部族ごとに分けました。
しかし、レビ人には、土地が与えられませんでした。
レビ人にとって主が、彼らの分であったからです。
ダビデも、神様こそが自分の分、すなわち領域であると宣言しています。
私たちも、この世に分がなくても、神様ご自身が自分たちの
分であるというダビデの信仰に見習いたいとおもいました。
私たちは、この世において旅人、寄留者です。
しかし、神様からいただいた貴い使命を果たす役割があります。
感謝します!