勇士の条件:聖書をめぐる旅 12/6
12/6(月)
歴代誌上7章には、イスラエルの部族が記されています。その中の「戦闘員」と「勇士」の違いを考えてみました。
また、詩編85編は「平和」がなぜ実現しにくいのかを考えてみました。
歴代誌上7章
3ウジの子は、イズラフヤ。イズラフヤの子は、ミカエル、オバドヤ、ヨエル、イシヤの五人。皆、家系の長であった。 4彼らには多くの妻があり、子供が大勢生まれたので、同じ家系に属する戦闘員が三万六千人いた。 5イサカル全氏族の兄弟たちには、勇士が八万七千人いて、それぞれ登録されている。
→
ここに戦闘員が36,000人いたことと、イサカル全氏族の兄弟たちに勇士が87,000人いたことが記されています。
「戦闘員」と「勇士」の違いは何でしょう?
勇士というと、ダビデの時代の三勇士を思い出します。
槍の名手 ヤショブアム
剣の名手 エルアザル
味方が逃げても一人持ち場に踏みとどまって逆転させた シェマ
映画ロードオブザリングに例えるなら
アラゴルン
レゴラス
ギムリ といったところでしょうか。
彼らが「戦闘員」ではなく、「勇士」と言われるには理由があるはずです。
確かに、大勢の敵を相手に勝利したことや、全力で大勝利を得たこと、主の力によって勝利がもたらされたことが共通点としてあります。
しかし、何より彼らを「勇士」たらしめたのは、ダビデに対する愛と忠誠心であったと聖書は語ります。
「喉が渇いたなあ、故郷の水が飲みたいなあ・・・」とこぼしたダビデの言葉を聞いて、自分たちの命を顧みず、40キロ以上離れているところにいって水を汲んできたエピソードがありました。
決して命令された訳ではありません。
ダビデは、この部下の命がけの水を「家来の命を飲む」こととして、主にこそささげられるものであると言いました。
ただの「戦闘員」ではなく、「勇士」であるためには、
小さな行いの一つ一つも神様にささげるものとして、なされている。
三勇士の姿勢は、ダビデに仕えることが主なる神様に仕えることと同じととらえていたのだと思います。その精神が、強い国を作ったのだと思いました。私も、ただの「戦闘員」でなはく、「勇士」として数えられるものになりたいと思います。
<参考文献>牧師の書斎
詩編85編
9わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
13主は必ず良いものをお与えになり
わたしたちの地は実りをもたらします。
14正義は御前を行き
主の進まれる道を備えます。
→何故人間の世界には平和がないのか?
平和を訴える人が、人と言い争ったり、人の悪口を言ったりしている様子はあちこちにあります。
戦争がないことを平和というのでしょうか?
それとも、いがみあいのないことを平和というのでしょうか?
隣の人が攻撃的であっても平和でいるには、どうしたらよいのでしょうか?
私が関わる児童会館でも、けんかの仲裁に入った先生が「仲良くしなさいっていってるでしょ!」と喧嘩腰で注意せざるを得ない場面もあります。
聖書のことを学んで、平和について思わされたことは、
平和の根本は、創造主なる神様との関係が和解されている、ということです。
人間が作ろうとする平和は、相手次第ですぐに均衡が崩れてしまいます。
しかし、神様との間に和解がされていると、そこが足掛かりになって他者を信じることができるようになります。
イエスキリストがこの地に来られたのは、人間と神様との和解をするためです。そして、その和解の証拠として、自らの血と命をささげられたのです。これは、どこかの筋の方々の血判状以上に、強力なものです。
主は平和を宣言される方です。
そして、「平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5章9節)