【雑記】心に強く残っている歌詞(6):『ストレンジカメレオン』
▼ 曲
曲名:『ストレンジカメレオン』
アーティスト名:the pillows
▼ the pillows の思い出
自分が pillows を知ったのは大学生の頃、『フリクリ』というアニメを見たのがきっかけになる。
『フリクリ』は劇中の音楽からエンディング曲から次回予告時の音楽まで全体が the pillows の曲で統一されていて、アニメの内容と相まってとても印象的だった。
それからすぐ当時のベストアルバム『Fool on the planet』を購入し、「あ、このバンドの曲は全部好きだな♪」と思ったので既存のアルバムを全部買い集め、その後も新譜が出れば発売日に即入手した。そうして現在最新の22ndアルバムまで、いつしか二十年以上も聞き続けていた。
それだけ長い蓄積があると好きな曲も選びきれないほどたくさんあるのだが、その中でもこの『ストレンジカメレオン』は聞き始めた初期からずっと強く心に残っている曲になる。
▼ 孤独と自由を引き替えに
思えば自分が好きになって聞き始めた頃の the pillows は、こういう曲が得意なバンドというイメージだった。
自分は孤独で他と馴染めないと感じていて、メジャーな人気者にはなれないだろうと諦めながら、それでも一握りの理解者のために歌って自分の足で立って歩いていこう、というような歌。
ただ、彼らのそういう孤独な曲はだいたい13thアルバムの『My Foot』あたりがピークでそれ以降は比率が少なくなっていった印象がある。おそらく pillows 自体がそれまでの「知る人ぞ知るマイナーバンド」から多くの固定ファンを得て「しっかりと地に足のついたバンド」という位置を築いたのも影響しているのだろう。「自分は世間から認められることなど望めないストレンジャーだ」と考えるのが彼らの現状にそこまで合わなくなって、それが曲にも反映されていった。自分はそんな印象を持っている。
それは悪い意味ではなく、「孤独で世間から理解されずとも自分の足で立って歩こう」という初期の方向性から「孤独で世間から理解されずとも」が薄れて「自分の足で立って歩こう」の芯の部分がストレートに出るようになったとも言える。そうして風格を備えた以降の the pillows も、自分は変わらず好きだ。
だがそれはそれとして、初期の孤独と憂いを強く帯びた曲もまたいつまでも忘れがたい。彼らの昔の曲を聞き直す度に、改めてそう思う。
▼ 猫と韓非子
さて、歌詞について。
この曲は頭から最後まで全部好きなのだが、特に自分をとらえて離さない場所を一カ所あげるならば以下の部分だ。
自分が大事だと思っていたものも、すばらしいと思っていたものも、愛情を向けていたものも、実は全部打算で構築された見せかけなのではないか。
言葉にできない尊い感情があったはずと思っていた親交でさえ、その蓋を暴いてしまえば即物的な利害関係から生じた夢も愛もない感情の取引だったのではないか。
そう感じてしまうことの寂しさ。
最初に聞いた大学生の頃からそれが一番衝撃的で心に刺さっていた。
だが今でもそのまま心に刺さり続けているその棘について、いつ頃からか自分は少し見方を変えるようになっている。
唐突だが、『韓非子』という中国の思想書をご存じだろうか。
自分が読んだのは十年以上前のことだが、他の中国の思想書もいくつか読んでみた中で一番自分にしっくり来て強く記憶に残った。
その考え方の根本を要約するならば、「人も含めて生き物の行動というのは全て突き詰めれば利害関係から発生するもので、倫理や親愛の情などというものは後から付け加えられたまやかしだ。そんなものは本質ではない。利害関係から生ずる行動原理こそが強固な本質だ」というものだ。
そう、つまりそういうこと。
「いつか懐いていた猫」なんてのはまさに「お腹すかしていた(か、もしくはそれに準ずる欲求をこちらが満足させられていた)だけ」と考えるのが当然。そういう考え方そのものだった。
今の自分は、『韓非子』に書かれたその「行動原理の根本」をおおむね正しいと感じている。
(もちろん一から十まで『韓非子』を信奉しているわけではない。始皇帝のように『韓非子』を基礎にして秦のような国を作りたいとももちろん思わない。
例えば『韓非子』は政治的な結論として国家には強い「法」が必要だと結論づけるが、自分は個人主義者であって「法」には警戒心を抱くタイプだ。そこをそのまま受け入れることはできない。
だがその前提となる「人とはどのように動くものなのか」という考え方については大きく頷けた。そういう話だ)
つまり、どういうわけか。
かつて『ストレンジカメレオン』を聞いて「もしかしたら言葉にできない親愛の情など結局は幻なのではないか」という不安に共感する大学生であった自分は、いつの間にかそれを「その通り。それは幻のようなものだ」と結論づける中年になっていたわけだ。
だが、それで自分にとってこの歌が意味を成さなくなったわけではない。そもそもこの歌は、「もし全てが幻で無価値で忘れられるだけのものだとしても、君と出会って今ここにいる自分を受け入れる」という歌だ。
仮定ではなく確実にそれは幻なのだと断ずるようになったところで、そこに込める自分の気持ちが無くなったわけではない。むしろ、逃げ場もなく向き合うしかなくなったという面もあるかもしれない。
いつか懐いていた猫はきっとお腹をすかしていただけなんだろう。
だがそれでも。
そこにあった感情は懐かしく、愛しい。すぐにパチンと音がして弾けてしまう幻でも、それを自分は暖かいものだと大事にしていたい。
今でもずっと、自分はそう思っている。