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【雑記】心に強く残っている歌詞(9):『ナインヘッドプライド』


▼ 曲

曲名:『ナインヘッドプライド』
アーティスト名:石鹸屋


▼ カラオケで歌うかどうかはメンバーを見て決めてる

 人にオススメするのにはちょっと困る曲である。

 この曲は、同人界隈で「東方アレンジ」と区分されるジャンルの曲になる。『東方Project』というゲームシリーズのBGMが元になっていて、それをアレンジしたもので、原曲にはないボーカルをつけたものも多く作られている。

 つまり、歌詞がつく。

 その歌詞の内容は当然、アレンジによって様々だ。原作のゲームにかなり寄り添っているものもあれば、ほぼ無関係のものもある。

 で、この曲はといえば、「原作とその周辺のネタを知っていないと通じない内容」がわんさか入っている。
 何も知らない人からすれば、「1体と9つの頭、夜を飛び」とか「利き手、利き足は赤い頭だから」とかは突飛で意図の分からない歌詞だろう。「誰だ今、⑨と指さしたヤツは」なんてのももう意味不明だろう。というか、「⑨=バカ」が通じるのは東方好きの間でも古い世代であって風化済のネタではなかろうか。

(補足しておくと、「頭」関連の歌詞は原作ゲームに登場する赤蛮奇というキャラクターがモチーフになっていることに由来する。彼女はろくろ首という妖怪だが頭部が空を飛ぶ妖怪「飛頭蛮」に近い形で描写されていて、さらに敵とした登場した時に頭を九つに増やして攻撃してくる技がある。それでナインヘッド。
「⑨=バカ」に関しては2005年発売の『東方花映塚』の操作説明画像で「⑨=バカ」と書かれていたことに由来する。ニコニコ動画で東方動画が隆盛していた頃によく使われていたのもあって当時の東方好きの人には広く通じていたが、とはいえもうかなり古いネタである)

 そんな感じでつまり内輪ネタに大きく偏った歌詞内容になっているので、事前知識のない内輪の外の人だとおそらく歌詞の半分ぐらいは意味の読みとれないノイズになってしまっているのではと思う。

 だが多くの人には通じなさそうではあっても、この曲は自分の頭から離れることのない強烈な曲だ。

 内輪ネタを全肯定したいわけでもなく、それがこの曲を楽しむためのハードルを高くしてしまっているのを勿体なく思っているのも本音だが、それを差し引いてもこの曲には強い魅力があると思っている。


▼ 変なプライドが邪魔をする

 この歌は『東方Project』由来のネタの比重が多いが、主題となるテーマはまた別に存在する。

 それは「『傲慢で愚かなか弱きプライド』を持つ者の孤独」だ。

 曲の視点となる人物は、自分が他とは違う存在だと考えている。自分は自分で考え、自分で行動できる存在で、頭の使い方を分かっていない他の有象無象連中とは違うと考えている。
 それゆえに、他の人と同じ目線で交われないのも当然と考えてきた。だって、周りの連中に合わせることは自分にとって自分の頭のレベルを下げることだから。

 だがそんなお高くとまった人格の自分を無条件で良しとしていられたのも過去の話。今は、自分のありように対する疑念が頭の隅から離れない。
 自分で選んだ孤独はそのまま話し相手の不在であり、頭の中ではいつも同じ思考が回っていて、その堂々巡りから抜け出させてくれるような刺激はそこにはない。
 いつも同じ思考の場所を一人で回っていることに、どうしようもない寂しさを感じることもある。

 そんな寂しさなど感じずに、傲慢で強気な自分であり続けられたらよかったのにとも思う。疑いも根拠もなく自分が特別だと思えた瞬間が、かつて自分にはあったのだ。そのままでいたかったのだ。(※)

いつも話し相手はよく知る8頭だ
そりゃごくたまに寂しくなるものさ
あの日強気にした不思議な力よ
今少しだけ湧き出て

(歌詞より抜粋)

 そんな風に「何故か強気でいられた自分」を保つのが難しくなった一方で、周りに対する感情もいつの間にか変わってきているのに気付く。見下す傲慢さがなくなったわけではないが、別の見方が混じる。

 今でも周りの連中のことをバカな奴らだと思っているが、そのバカな奴らは自分のことなど全く気にもせず、集団で群れて楽しそうだ。
 自分もそんな連中の中に混じって何も考えずに生きてしまえたらと、そんな思いが浮かぶ。

 だが。

 それはどうにも許せないのだ。考える頭のない連中のほうが幸せそうだと気付いてしまっても、自分の頭を捨てることは自分には耐え難い。
 強気な自分がいなくなっても、他者との隔絶感だけは消えずにいつまでも残っている。彼らとの間を隔てる変なプライドだけは残っている。

今日も柳の木の近くで私は バカ騒ぎしてる人を見ているよ
本当は共に騒ぎたいけれども 変なプライドが邪魔する

(歌詞より抜粋)

 そんな、傲慢な孤独。
 愚かなプライドを持って自ら選んだ孤独と、そのか弱きプライドをいまさら捨てることもできない自我という見苦しさ。どっちつかずさ。
 それを抱えている生きる人の様子。

 この曲で描かれているそれをどう感じるかは、聞く人によるだろう。馬鹿が馬鹿なプライドで孤立してるだけ、さっさとそんなプライドを捨てればいい、と無下に扱って切り捨てる人もいるかもしれない。

 だが自分はどうしようもなく共感してしまう。もちろん全く同じ考え方をしているなどとは言わないが、客観的に見れば自分はこんな感じであるのだろうと考えてしまう。自分は自分の意固地さをプライドと言ったりはしないが、それでも。

 頭から離れない自分自身の自省の感情であるかのように、この曲は自分の頭に強く住み着いている。




※補足:

・自分はこの曲の視点を一個人と想定し、「9つの頭」もいわゆるペルソナ的なあくまでその人の一部分としてイメージしている。
 だが別の読みとり方をすれば「同じ思想で固まった小グループ」の比喩として考えることもできるだろう。そのあたりは、「9つの頭のろくろ首」というファンタジー存在をモチーフにしたことで生まれた現実に縛られない表現の深さだ。聞く人によってイメージしやすい形でイメージしてよい部分であるだろう。

 ちなみに個人としてみる場合でもグループとしてみる場合でも、「自分または自分たちの物の見方に固執している人(々)」と考えると、結果的にではあるだろうがこの曲の内輪ネタ性の強さとも絶妙な相乗効果を発生させている。内輪ネタとはつまりそういう「自分たちの物の見方」への偏重とそれ以外の視点への不親切さからの産物であるから。

 なお、その「内輪ネタの定義とその是非」というのも考えがいのあるテーマではある。(そもそも内輪ネタとは何か。人間というものが集団で生きるのが基本の生き物であるならば、その場でその集団が優勢か否かがあるだけでほぼ全てのネタは突き詰めれば内輪ネタになるのか。そしてそれは楽しむべきものか忌避すべきものか)
 だが今回の話の中で文章化して追求しようとすると本筋の『ナインヘッドプライド』の話から大きく外れて脱線してしまうので触れないことにした。実際、少し書いてみたが全部カットした。

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