「参観日廾描」他(第5号・2002年5月3日発行)
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---◇ 山口“悟風”智・作「おかあさんへの手紙」◇--------------
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------------------------------- 第5号・2002年 5月 3日発行 ----
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☆今週は、低学年トラック
1975年度北海道上川郡風連町立風連中央小学校2年学年通信「リボン」より
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★参観日廾描
さんすうの時間。105>96 105は96より大きいの勉強。
(1)172 173 (2)280 293 (3)469 468
(5)660 663 (6)962 762 (7)210 200 と板書。
“さあ、わかる人? はい、(1)は○○くん”とくとくとやろうとしたら、
“ワァー、ちがってらぁ、(1)(2)(3)(5)(6)(7)だとよ”“先生、(4)がないよ。(4)
がー”
“うん、どこ? あ、これか。先生まちがっちゃったな。”と(4)(5)(6)とゆっくりなおす。45人90のひとみ。そして30人のおかあさんの目玉! 60。〆て150のひとみが黒板消しに集中。“先生! しっかりしてやぁ”とすきとおったSくんの声を左耳に聞きながら、わたしは腹の中でシメシメとひとり ほくそえんだ。“ちがってらぁ”と、とんきょうな声をあげたのは、わずか一週間のおつき合いながら、キョロキョロ、ソワソワと私の話なぞ まともにきいてなくて何度か“コラッ!”とお目玉のはいっているKくんだったし、おかあさんがうしろにきていることでウレシクテ ウレシクテ タマラナイ この子たちがうしろを見ずに、黒板の小さな数字に集中している。
病室の番号でないけど、(4)をぬかしてみてよかったなと自画自讃の参観日のひとこま。
(1975年4月18日)
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★母は命の泉
五月の第二日曜(ことしは十一日)が母の日です。今から六十五年ほど前、アメリカのアンナ・ジャービスという人が自分のおかあさんがなくなってから“ほんとうによいおかあさんだった”と気づき、カーネーションの花束を捧げて感謝したことがひろまったのだそうです。
「母こそは命の泉」とい丶ますが、おかあさん、ご自分のおかあさんが健在の方は、遠くはなれていれば、せめて電話をかけるとか、ハガキをかくとか——。もうすでに他界されてる方は佛前におかあさんの好きだった果物を供えるとか……。日頃のそうしたおかあさんの姿勢やふるまいをお子さんはちゃんと黙っていても見とってますし、肌で感じとり、へたでも幼なくとも おかあさんの顔をかいたり、「肩た丶きしてあげる」と近よってくるものです。
“今日は、母の日だから、おかあさんに感謝しなさいよ。玄関はいて、お茶わん洗って、スーパーいってサシミを買っといで……”などとご自分はソファにねそべり、おかしをボリボリ、ワイドショー、女の事件にうつつをぬかしていると……。ちなみに、「子は親の鏡」といいますぞヨ。
(1975年5月2日)
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☆来週は、5年生トラック
1981年度北海道富良野市立鳥沼小5年学年通信「つながり」より
山口“悟風”智のプロフィールは、
http://plaza.rakuten.co.jp/gofu63/profile/
をご覧下さい。
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◆編集後記「千鳥足」◆
メールマガジン「おかあさんへの手紙」は2カ月目に入り、スタート地点(創刊号)と同じ「1975年度の風連中央小学校2年1組」に戻りました。今回は、4月半ばと5月初めの計2編をお送りしました。
参観日のコラムに書いてあるように、当時の2年1組は、児童が45人もいました。この学年は、丙午(ひのえうま)の1年下で、いわば「子だくさん」でした。
風連中央小はこのころ、1学年70人前後がほとんどでした。2クラスに分けると、学級には35、6人の児童がいるのが普通。ところが、この年の3年生(丙午)は60人を割り、逆に2年生が90人前後いたのです。当時のクラス編成では、確か91人になると、3クラスに分けることが出来ることになっていました。そのために、この年の2年生は、その後、3クラスになったり、2クラスになったりと、何度もクラス替えをさせられていたことを記憶しています。
続く「母の日」のコラム。「母」は、山口“悟風”智を語る時に、欠かせないテーマです。コラムやメールマガジンのタイトルそのものが「おかあさんへの手紙」となっていることだけでも、お分かりでしょう。父が教員だからというだけでなく、個人的にも、母親への思い入れが強くなる体験をしているために、いろんな場面で「母」が出てくるのです。詳しいことは、いずれ登場するコラムに語ってもらうことにしようと思います。
ところで、今日は憲法記念日。そして、朝日新聞阪神支局で2人の記者が殺傷されて、満15年の日です。午前0時で、ついに公訴時効が成立してしまいました。残念です。亡くなった小尻知博記者のご冥福をお祈りします。
思えば、朝日事件があった日、大学のスキークラブの合宿で信州・白馬に行っていました。なぜだか分からないのですが、宿舎に届いていた新聞を見て、ふと「新聞記者になろうかな」と思ったのです。当時、私が抱いていた「マスコミ」に対する印象は、図々しくて、わがままで、偉そうにしているというものだったのに、です。(この思いは、現在もほとんど変わっていません)
事件から2年後、バブル経済の泡が最も大きかった年。星の数ほどある企業のうち、なぜか、「ついでに受けた」つもりの新聞社にしか受かりませんでした。よほど縁が深いのでしょう。その会社には、今も勤務しています。
そういえば、私がまだ小学生のころ、父に「僕、マスコミなんかが、合うかもしれないな」と言われたことがありました。父は、私が教員になることを望んでいたので、どうしてこう言ったのかはわかりません。父も普段は、「マスコミのやつらは、いつも偉そうだな」と嫌っていたのに、です。
父がその後も、自分のそんな発言を覚えていたかどうか、分かりません。が、明らかなのは、子どものころ、父に作文を添削してもらったのがきっかけで、私は作文が苦手だと思うことがほとんどないまま大人になり、果てには新聞記者になってしまいました。これだけは、間違いありません。
(発行者・山口一朗)
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■発行者: 「悟風の書斎」管理人・山口一朗
yamaguchi_gofu@yahoo.co.jp
「悟風の書斎」http://www.asahi-net.or.jp/~jh2i-ymgc/gofu.html
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※トップの画像は、「JR宗谷本線・風連駅駅名標」ヨッシー宙船さん撮影。
旧風連町(現・名寄市風連町)にあるJRの駅です。この写真は「photoAC」https://www.photo-ac.com/ よりご提供いただきました。ありがとうございました。
■「おことわり」
☆明らかな間違い以外は、基本的に筆者・山口“悟風”智が書いたまま載せています。(編集者・悟風のムスコ)
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