旧統一教会をめぐる思索②
「真如苑」という宗教がある。統一教会のテーマで語っていいのかわからないが、「これだから新興宗教は大嫌いなんだ」と感ぜしめたのが真如苑だ。
会社にNさんという女性パートさんがいた。10歳ほど上で数年前に退職したが、会社の近くに住んでいて、仕事中に「ちょっと話したいことがあるので帰りに家に寄ってもらえませんか?」と言われた。まさか色仕掛けとも思えず、パソコンを直してくれとかその類いかと思って無警戒に立ち寄ったら入会の勧誘だったというつまらない話。その時のことをFacebookに書いてあったので転載する
旦那さんを亡くしてからシングルマザーとして一所懸命に働き、二人の子供を大学に行かせたことを誇らしく思っていたようだ。それはそれで立派だし、真如苑への信心がそれを支えたならば悪いことではないだろう。統一教会と違い500円程度の護摩とのことで家計を狂わせたわけでもないだろうし、Yの母親も真如苑に入っておけばよかったのに、と思ったりもする。
だがやはり、信仰を自己完結してくれればよいものを、オレをターゲットに“幸福のお裾分け”を目論むのは勘弁してもらいたい。彼女に悪意はまったくない。母親が見つからないオレを憐れに思い、自分が真如苑に見出した救済を純粋に分け与えたいと思ったのだろう。立派だ。立派すぎてヘドが出る。それを非難したところで、彼女は「どこがいけないの?」とナイーブさを丸出しにするだけだ。
奈良の事件から3ヵ月近く、統一教会という宗教(エセ)について考えた時に、なぜあの人らはそこまでナイーブに信心を保てるのか、不思議で仕方がなかった。疑い深い自分のほうが不幸かもしれない、とさえ思えてくる。真如苑にしたって、宗教の形を借りたネズミ講的な集金システムを確立していると思われ褒められたものではないが、他人に迷惑をかけない限りは、まぁ許そう。だがこの時のように、未曾有の天災でどうにもならない境遇・不幸を、信仰の力で逆転させようというのは驕りもいいところで、そんなノーテンキな信者を量産して社会にバラ撒くのは勘弁してほしい。
宗教の困るところは、自己完結せずに周囲を巻き込んで人間関係に支障を来すところだ。信心のない他者を不幸者と決めつけ、さまよえる仔羊を保護したいかのごとく勧誘を働く。どうせそれは組織内でのステージアップとも結びついているのだろう、他者を巻き添えにすることで自身のステータスをエスカレートする自己実現を果たしているわけだ。そのくせ本人は救済しているつもりだからタチが悪い。
こんなオレにも信心は、ある。上に書いたように浄土宗への帰依だ。いや、一般的な信仰とは違う。門脇の土地、死んだ親父やお袋と西光寺との関係、先代住職や現住職への畏敬などさまざまな背景があって説明できない。西光寺がなければこの11年間やって来られなかった。きわめて個人的な思いだ。オレ自身のための寺参り。理解されたいとも思わない。
こういう独りよがりな信仰が高じると、他者に不寛容になったり自分だけが正しいと独善的になったりするのかもしれず自戒は必要だが、こうなってしまったのも震災の所為。もはや天命である。この信心が元で家族など近親者に嫌な思いはさせていないつもりだ。それならば文句はあるまい。
ナイーブな(意識的にネガティブな意味で使っている)Nさんのダメなところは、震災をめぐってオレとまともに対話してないのに、いきなり「救済したい」などと手を差し伸べてきたことだ。お節介も甚だしい。その頃のオレはどこか救済を求めるような顔でもしていたのだろうか? 東京の家族にしてもまったく力になっていなかったし心細い面はあっただろうが、今となってはどうだったか思い出せない。そこはあまり変わっていないんだが。