「起承転結」は論文に使えない
日本で何か書くときに、書き方の指南としてよく使われるものに「起承転結」があります。これは実際どれだけ役に立つのでしょうか。結論から申しますと、分野を研究論文に限ると、全くもって役に立ちません。というか、「起承転結」の形で研究論文を書いてはいけません。研究論文にはきっちりと決まった書き方があり、それは分野で多少異なっても骨格はほぼ同じです。このようになっているのは、ヨーロッパで発祥した科学の内容をよりわかりやすく、誤解が生じないように書き表す努力がギリシャ時代から綿々と続けられてきたからです。科学は残念ながら日本では生まれませんでした。従って科学的な知見を書き表す方法も日本では考えられませんでした。それは明治維新以降突然現れたのであり、膨大な科学と哲学の知識を短期間で理解・吸収し、さらに応用してゆくことを求められたため、どうしても書き方の習得は二の次になってしまいました。「やまどりの伝書鳩: 第9回 Find Your Own Words ってどうやって生まれたの?」で述べたように、これは現在でも続いています。
日本は世界に誇る文学を数々創出しました。「源氏物語」は世界初の長編小説と言われています。和歌や短歌、俳句もまた世界的に評価されていますし、現在でも素晴らしい小説家や歌人が活躍されています。みなさん、日本人が中国の漢字を使って表記法を学んだ時、なぜ「万葉集」を編集したかお考えになったことがありますか?記紀も当然のごとく書かれましたが、それらと双璧を成すのが「万葉集」です。そこには全国津々浦々から集められた和歌が収録されています。しかも集められた和歌は歌人の身分を問いません。なぜ政治的にさほど重要ではないと思われる和歌にそれほどの時間と労力を費やしたのでしょうか。これはつまり当時の日本では和歌を作ることは極めて日常的に行われていた、極めて自然な行いだったことを示唆しています。皆が歌っていたのです。これは素晴らしい文化です。今もこの伝統は生きていて、和歌・俳句はとても人気があり、それらを趣味とする人々も多くいます。
このように言語芸術の分野における日本人の貢献と活躍は素晴らしいものがあります。しかしながら科学的論文のように、理論的に考えを展開する書き方は最近までほとんど教えられたことがありませんでした。手っ取り早く吸収する手法がコピペ文化となって定着し、事もあろうかそれを推奨するような教育が今でも行われています。明治時代のように知識は「すでに考えられたものを吸収する」行いであった時は致し方なかった部分もありますが、もう21世紀も四半世紀を過ぎ、新しい知見を創造していかなければならない現在、やはりそれに適した書き方を学ぶ必要があります。
ではそのような論文の書き方はどのようにして学べるのでしょうか。残念ながら日本の小中高の教育では無理です。大学でもどうでしょうか。理由は単純で、先生がそんなことをしたことがないからです。さらにそんなことを学んでも偏差値に関係しないからです。このようなキャッチアップ型はもういい加減やめましょう。やまどり学園では生徒の年齢に関係なく、この理論的な論文の書き方を教えます(注: 基本的には学校での学習支援を行います。生徒さんの理解の程度や力量を見ながら、進んだ指導も行うことがあるという意味です)。年齢を問いませんから、大人の方でも大歓迎です。一度覗いてみてはいかがでしょうか。きっと新鮮な驚きが待っていること請け合いです。