【戯言6】ラノベとアニメ【文学と現実】
ちょっとだけ、つらつらと。
また「西尾維新」の「クビキリサイクル」などのページを、パラパラとめくっている自分がいる。一度は処分したのだが、去年にこの一巻だけは「本」として手元に欲しくなって買い直した。「乱読」である自分には、気になる「文字列」であれば読んできた。新聞だろうが技術書だろうが…。
改めて考えるのだが、「読書」が「勤勉」であると言われても、まあ他人様のことであるのだろう。そして「読書」以上に「動画」は見やすい環境であり、「乱視」してしまうのだ。「勤勉」とは言われないんですけどね。
一時期、狂った様に「YouTube」を見続けていたのですが、その先に何があったかと言えば、「YouTubeの広告」に行き着いたぐらいでしょうか。アレが一つの「極点」だったのだろうと思っています。以降、だんだんと見る時間が減っていき、今はニコニコ動画のマニアックなものを楽しく見ている次第です。
ラノベについては、何から読み始めたかは曖昧ですが、「ロードス島戦記」辺りでしょうか。「スレイヤーズ」や「オーフェン」も経由してきました。「Dクラッカーズ」や「ストレイト・ジャケット」などは残念ながら話せる友達がいなかった記憶がありますが、喜んで読んでいたものです。
大分飛んで、現在なのですが「アニメ」として多数の素晴らしい作品を見れる時代に感謝はしています。ただ、技術は進んでいるのだけれども、何かが引っかかっているとも感じてしまうのです。贅沢な悩みなのでしょう。「ソードアート・オンライン」のVR世界観や動きの表現、「ノーゲーム・ノーライフ」の理論展開の面白さ、「幼女戦記」の感情の振れ幅と演出の引きなど、どんどん素晴らしくなっているんですよね。他にも引き込まれる作品は多数あります。それでも「現実」が「目標」とする「イメージボード」の何かが足りない気がするのです。これこそ戯言ですよね。
もし、それ以上の「先」が欲しいなら、「製作側」に入っていくしかないのかもしれないと、寝ぼけた頭で考えています。それでは。
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