2月18日 冷笑には「ヤバい」で返す。構造批判には共感を

晴れ。土日の最終日。労働の苦しみつまり、肉体の疲労から開放される最後の日。明日から、また肉体を酷使し、日銭を稼ぐ毎日。だが人間関係の苦しみがないというだけでまだマシではある。肉体の疲労はマゾヒズムを刺激するだけで終わり、私の思索を妨げる物ではないのでそれにはまだ耐えられる。だが夏の猛暑にも同じ事を言えるのかそれはまだ分からない。
 
 昨日は「ヤバい」について色々考えていたが、
「ヤバい」という言葉こそが「冷笑」に対するカウンターになるのではないかと思う節があった。

 「冷笑」された時の対策としてよく上げられるのは無視した方がいいという話はよく聞くが、
「◯◯くんヤバすぎ〜」と話を強制的に終わらす手法も効果があるのではないか?そう考えるようになった。

 ゼロ年代のオタクの好みのキャラクター像は
「綾波レイ」や「長門」などの無口キャラクター
10年代はバブミという言葉から察する事が出来るように「母性」があるキャラクター 令和は「オタクに優しいギャル」という変遷があったと個人的には感じている。

 このキャラクター群の共通点を上げるのであれば
オタク自身を包みこんでくれるまたは、自分を承認してくれるというキャラクターであるという点であろう。

 「綾波レイ」や「長門」が好まれたのは
コミュニケーションが苦手な自分と同一視し、同じ無口なキャラクターなら俺の事を理解してくれるであろうというコードを読み取り消費していたのではないかというのが私の考えであり、同じようにバブミも、母性という自分を無条件に肯定してくれるであろうという点で、オタクに優しいギャルも
「アニメの事はよく分からんないけど好きならそれでいいんじゃね?」という風にオタク自身を無条件に肯定する点では同じであり、 表現の違いはあるにせよ根本の部分は「無条件に自分を肯定してほしい」という欲求は変わらないという説を押したい。
 
 そうならば、「ヤバい」という言葉の持つ
共感力を重視することで、冷笑に対抗出来るのではないかと思う事がある。

 何が「ヤバい」のかそれは重要ではない。「ヤバい」という言葉を用いて有限化をし、冷笑の持つ批判のニュアンスを共感の会話に移行するこれが大事なのかもしれない。

 これを相対主義であったり、分断を加速させるという点で批判されるかもしれない。しかし、私は無限に再生産される言説を強要されるSNS社会のアンチテーゼになるの言葉が「ヤバい」だと思っているので、シリコンバレーの人間の富を増やす為に
無意味な議論の輪に強制参加させられるぐらいなら
「ヤバいよね〜」で終わらす事が重要だと考える。

 冷笑をする人も「自身を肯定されたい」欲求を持っているのだから、それを満たしてあげられる言葉としての「ヤバい」をこれからも使っていきたい

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