人を見ることについて

人は少ない情報から、多くの事を理解したい生き物なのだと思う。

人相学や童貞判別法のような身体的特徴から、その人がどのような人物なのか当てることを楽しむ。

それを楽しむ人たちにとっては、正解かどうかは二の次であって、言い合うことが主な目的なのだと思う。

くだらない会話の一つの手段として、その場だけ盛り上がればいいというのが本音なのだろうか。

そういう根拠のないレッテルを貼り、その人物を理解しようとするやり方は褒められるものではないかもしれないが、色々な判別法で人を理解することは、面白いのでやめられないのである。

昔はよく、ドトールに行った時に周りの客を観察していた。だけど、それが今の生活に活かせているか言えば答えはNoだ。

身体的特徴だけでは、人の内面までは理解できないのは当然というのは今では分かっているはずだが、その癖が抜けないのである。

会話を繰り返し、その人の仕草を観察し、こういう人物だという仮定を置いても、精度はせいぜい30%ぐらい当たっているかどうかである。

最近は人を理解しようとすること自体がおこがましい行為だと思うようになった。

共通点を探して他人と分かり合う事はできるが、本当に理解することは不可能なのだと思う。

冒頭に例に出した童貞判別法というのも、内容を見てみると、「ニキビがあるのが童貞だ」「肌がきれいなのが童貞だ」と相反する内容が平然と語られていたそうだ。

だけど、どんな漠然な内容であれ、友達と語りあうことこそが楽しいということだけは変えられない事実なのだと思う


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