バッチャと子育て~年の差80歳のひ孫育て!!~01
第一章 バッチャと育てる
バッチャのいる子育て~バッチャは当時88歳 長男11歳、次男7歳〜
バッチャ…。それは救いの手。バッチャは我が家の救世主です。
私が嫁いでからというもの、私は嫁ぎ先のダンナのおばあちゃん・通称「バッチャ」の助けなしでは、家事に仕事に育児など、全部もこなせやしないよ、絶対。という、槇原敬之の「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対~」みたいな倒置法を使って表現するほど、バッチャに感謝して暮らしています。
というより、バッチャがいないと実質、今の暮らしは成り立たないので。わが家の場合、家族全員が健やかに暮らしているのは、すべてバッチャのおかげなのです。
バッチャは私が不在の時は晩ご飯も作ってくれるし、育児もタダで手伝ってくれる。更にバッチャは畑に裁縫、漬物作りなど、とにかくすごい数の仕事をこなす『スーパー・バッチャ』なわけです。
バッチャは恐らく、自分が九十歳近いということに、気付いていません。十代の気分のまま、九十代まで来てしまった人なのです。
冬は除雪機を操り、夏は耕運機を運転します。「一体、いつ辞めるんだろう……?」と不思議に思っていますが、九十歳近くになってもそれまで続けてきたことをやめなければ、人って色々なことを続けられるみたいです。
そんなバッチャのセリフには、生き様が各所にあふれています。
子どもが泣いて泣いて、泣きやまないと、育てる方が泣きたくなってしまうのですが。そういう時にバッチャはニカリと笑って、一言いうのです。
「泣ーいて死んだーぁ、人はいない! ハハハハ!」
と。本当に、天を破るほど明快に言い放ってくれるのです。(破天荒とはまさにこのこと。)バッチャの答えは、いつも私をバッと救ってくれます。
わが家はダンナの祖母と孫夫婦という、ちょっと珍しい構成の家族です。そこにひ孫が生まれて、赤ちゃんとバッチャの年の差は約八十歳という、珍しい子育ての道を歩んで来ました。
長男が0歳の時にはバッチャは七十七歳。こんなお年寄りに子どもを預けて私は、月イチで東京に出張に出かけていたのですが。バッチャに預けて子どもがケガをするなんてことは、この十数年で一度もありませんでした。
今考えると、七十七歳の時のバッチャはものすごく若かったです。ピッチピチしていました。
子どもたちも私の出張中はバッチャと眠り、バッチャの作ったご飯を食べて。バッチャは子どもが小さい時は離乳食を作ってくれたり、哺乳瓶でミルクも飲ませてくれました。
その子どもの数が二人に増えても、出張の時はバッチャの隣で寝て、安心して待っていてくれたんですね。おかげでたくさんのイベントに参加することができました。
「母に育児を手伝ってほしいけど、もう六十歳なので心配です」というお話を聞くと、「うちのバッチャがひ孫育てを始めたのは、七十七歳です! 二人共、今では立派な高校生と中学生です!」と答えたくなります。
七十七歳から、九十五歳になる年齢までバッチャは私の不在の間に子どもたちにご飯を食べさせ、ダンナ(バッチャにとっては孫)の面倒も見てくれてました。
そしてそれは、現在進行系で続いていて、九十五歳になるのにバッチャは炊飯器でご飯を炊き、お皿を洗ってくれるんです。
子どもって、保育園に預けても必ず、熱を出して保育園から「お迎えに来てください」と呼ばれる生き物じゃないですか。そうなった時に一番支えになってくれるのは、バッチャなのです。
それが、実の母じゃなくても、お義母さんではなくお義祖母さんでも。頼れるものは何でも頼って育てればいいじゃないですか。
東京出張に二泊、島根県に行くには三泊と。イベントのために家を留守にしてきた私は、離れていたことでより一層、子どもたちが成長し、またバッチャとの絆を深めてきたと感じます。
「うちのお義母さんにも孫育てを手伝って欲しい」と思っている方、七十七歳のおばあちゃんでも大丈夫なんですから、お義母さんなんて、ものすごい戦力です。
子育てを「外交」だと思って考えれば、和平条約、晩餐会、ゴルフ接待など。できることはいっぱいあります。
どんな手段を使っても、子どもが育てばそれで成功です。そして子どもは誰にでも、生き甲斐を与えてくれる生き物なのです……!
この本では子どもが上が11歳、下が小学校1年生の7歳だった時代からご紹介します。当時、バッチャは88歳! それでは「バッチャと子育て」の、はじまり、はじまり~!
to be continued!