【山田社長×アスリート対談企画】ロンドンオリンピック銀メダリスト藤井瑞希さん 前編
アスリートたちにとって、日本を代表して戦うことは特別な想いがあり、そこに至るまでの熱いストーリーがあります。大事な試合に挑むのは孤独な戦いかもしれません。しかし頑張るアスリートのために、山田水産にも何かできることがあるのではないだろうか、そんな想いから誕生した「山田の“勝負メシ”プロジェクト」
古くから人々の”元気の源”として愛されてきたうなぎを、現代のアスリートに”エネルギー源”として提供し、食を通してアスリートのみなさんのサポートをしよう!私たちはこう決意しました。
この企画では、プロジェクトの発起人であり、自身もマラソンsub3.5ランナーとして別大マラソンへの出場も果たす自称アスリート(素人)の山田信太郎社長が、日本を担うアスリートと対談し、スポーツの魅力と食べることの大切さをクローズアップします。
今回はバドミントン競技で日本初の銀メダルを獲得した藤井瑞希選手。オリンピックに出場した際の貴重な思い出や現役時代の食生活についておはなしいただきました。
※この記事は、2019年に撮影・取材した記事を編集し、再掲載しています。
プロフィール
5歳からバドミントンをはじめ、24歳でロンドンオリンピックへ!
藤井 今回は銀メダルを持ってきました!もしよかったら首にかけてみてください!
山田 いいんですか!?とても貴重な機会をありがとうございます。ズシッと重みを感じますね。
藤井 このメダル、何gくらいあると思いますか?
山田 700gくらいじゃないかな、正解はどうですか?
藤井 正解は460gくらいです!実際の重さ以上に銀メダルの重みを感じていただけてとても嬉しいです(笑)
山田 貴重な経験をありがとうございます。オリンピックまでの道のりはやはり長く険しいものだったと思いますが、藤井選手はいつごろからバトミントンを始めたんですか?
藤井 姉たちの影響で、保育園に通っていた5歳から始めました。私が育った熊本県芦北町は小さな町なのですが、当時バトミントンに携わっているコーチや教員の方々が多数いらっしゃって、町自体でバトミントンがすごく盛んでした。
山田 保育園から始めて、現役を引退するまで25年間バトミントンとともに歩んできたんですね。始めたころからもうプロになるための練習をしていたんですか?
藤井 始めたころはまったくそんなことは思っていなくて、母も運動をさせるための機会として姉たちと一緒にバトミントンを習わせていたんだと思います。当時は週3回、2時間くらいの練習からスタートしました。
山田 競技として始めたのは、おいくつの頃ですか?
藤井 小学校1年生のときに出場した町の大会で優勝して、そこから競技としての練習をしているチームに入りました。
山田 そこから選手としての頭角を現して、中学卒業後スポーツの名門、青森山田高校に進学したんですね。
藤井 私が中学校1年生の頃に、付属の青森山田高校が設立して、そのあたりから世間的にもスポーツのイメージができてきましたね。高校時代は高校の代表として、日本代表としてバトミントンに励んでいました。
山田 バトミントンが一躍有名になったのは、「オグシオ」ペアの登場あたりからですよね。それまでにも名プレイヤーはたくさんいたけど、そこでぐっと競技の認知度が上がったような印象があります。
藤井 「オグシオ」ペアは私の5歳上の先輩ですね。私が20歳の頃にはお二人はすでに引退されていましたけど、当時すごく人気だったのをよく覚えています。
山田 ペア競技で選手の名前を短縮して呼ぶのも「オグシオ」くらいからですよね?
藤井 そうなんです!その頃から愛称で呼んでもらえるようになりました。その流れで段々と日本代表になるタイミングになると、「私たちって○○かな?どっちの名前が先に来るかな」ってはなしをするようになったりもして(笑)
山田 現在、バドミントンの競技人口はどれくらいなんですか?
藤井 バトミントンの認知度が上がっているので、人口もかなり増えて現在選手登録者数が30万人突破しました。競技をしている側からして認知度が上がったなと思う瞬間も増えましたね。例えば昔だとCMでスポーツをするシーンがあると、野球やサッカー、バスケなどのメジャーな競技が多かったんですけど、最近だとそこにバドミントンが入っていることが増えてきていて、「そこでバドミントン使うの!」と不思議な感覚になりますね(笑)
バドミントンに対する注目度が上がっているからこそ、そうやって起用してもらえているんだと思うと嬉しいです。
山田 代表選手の活躍とともにバドミントンがメジャーなスポーツになっている様子がよくわかりますね。藤井選手は2012年にロンドンオリンピックに出場されましたが、オリンピックの存在は大きかったですか?
藤井 出場できたら大きな達成感を得られる、大きな目標のひとつではあると思います。バドミントンはオリンピックに向けて1年間レースがあって、さらにその1年間を戦う前にまず2年前くらいまでにランキングの上位を維持して日本代表に入らないといけません。そのため約3年間は日本代表としてオリンピックレースにい続けなければならないんですよ。ケガをするわけにはいかないというプレッシャーもあって、それが一番きつかったですね。
山田 他の大会と比べて特別感はありました?
藤井 私はオリンピックだからといって特別な感情はありませんでした。普通の試合と同じだと思って挑んでいたので、いい成績を残せたタイプなんじゃないかなと思います。でも当時はメディアで取り上げてもらうのはプレッシャーになってしまうので苦手でした。私たちがオリンピックに出た時は、「スエマエ」ペアが取材を受けることが多く、私たちは自分たちのやるべきことに集中できたので、とてもありがたかったです。
山田 試合中はもちろん集中していると思うんですけど、メダルを取った!と実感した瞬間はありましたか?
藤井 ロンドンオリンピックの準決勝で対戦相手の世界ランクが自分たちよりも下だったということもあり、メダルを逃すのはありえないでしょ!という状況になっていたんです。でもそういう状況でも、初めてメダルがすぐそこという試合だったので、現役生活25年を振り返ってもあのときの試合が人生の中でも唯一、緊張感がMAXで自分の納得いくプレーができなかったなと思います。試合には勝ちましたけど、必死過ぎて試合をしたという気持ちにはならなかったですね。とても苦しかったです。
山田 試合が終わったあとは、達成感というよりも開放感が先にくる感じなんでしょうか?
藤井 開放感と達成感ですね。嬉しいという気持ちよりも結果が出せてよかった…!という気持ちだけでした
山田 試合が終わって表彰台に上ったときはどんな気持ちでした?
藤井 試合が終わってすぐに退場するんですけど、そのあとすぐに「表彰式です」と言われて、実感がわかないまま表彰台に上ったんですけど、メダルを首にかけてもらった瞬間に重みをグッと感じて…メダルを獲った実感と涙がブワッと溢れました。
山田 メダリストの方にこれは一度聞いてみたかったんですけど、メダルは噛みました?(笑)
藤井 もちろん噛みましたよ(笑)メダルを受け取ってから、走馬灯のようにお世話になった方々の顔が浮かんでくるんですよ!メダルが取れてよかったーという気持ちと、感謝の気持ちがこみ上げてきて涙がとまらなかったですね。メダリストが涙ながらに感謝を述べるというのは、きっと自然なことで本当に感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
オリンピック出場後のドイツ留学が人生のターニングポイントに
山田 メダルをとったあとに燃え尽きてしまうようなことはなかったんですか?
藤井 私はオリンピックを目指すときに、まず2度は目指さないと決めて挑みました。オリンピック出場を目指していたころを振り返ってみると、いろいろなものをそぎ落として、常に緊張状態で生きていたなと思います。
私の場合は5歳からオリンピックが終わる24歳まで休んだことがないと言ってもいいくらい、毎日をバドミントンとともに過ごしてきました。だからこそ、ロンドンオリンピックを目指したときに、ロンドンオリンピックに出場できてもできなくても、そこで選手生活を終わりにしようと決めて挑んだので、結果が出せたのではないかなと思います。
山田 優勝をしたあとに現役を続行するペアは少ないんですか?
藤井 高橋・松友ペアは金メダルを獲得したあとも、国内の試合に出続けていました。その精神力って本当にすごいことだと思います。頂点を極めたあとも日本代表でプレーをし続けている2人の姿を下の世代が見て育っていく環境は、バドミントン界にとってとても大きな貢献だと思っています。
山田 2人が業界にいることで、次世代にとってはとても刺激的な環境ですよね。一度休業したり、引退したりする選手もいますが、少し競技と距離を置くことで、またチャレンジしたいという気持ちが芽生えるということなんですかね?
藤井 私の場合は休まないと無理でしたね。途中25歳〜27歳まで少し休んで、28歳からまた東京オリンピックを目指そうと思えたのは、休業した3年間があったからだと思います。そうじゃないと復帰したいなんて絶対に思わないし、絶対に思えなかったですね。
山田 海外に留学をされていたと聞いていますが、そのときはどんな生活をされていたんですか?
藤井 中学生のころからずっと海外で生活してみたいという夢があったので、オリンピックが終わったタイミングでドイツに留学をしました。ただ留学するよりも新しいことにチャレンジしてみようと思って、日本人初のヨーロッパリーグ参戦に挑みました。それまでの生活はバドミントンが8〜9割を占めていたんですが、ドイツに行ってからはバドミントンが5割程になって、残りの5割がプライベート。この割合は私自身にとって初めての環境で、語学学校へ通ったり、旅行をしたりと思うがままに過ごせた貴重な時間になりました。
山田 その途中でまたバドミントンをやりたいと思って、復帰を決意されたんですか?
藤井 ドイツにいる間、「もう次の年で引退しよう」と思っていたんですが、そのころ地元の熊本で地震が起きました。ドイツにいると直接ボランティアに行くことも、救援物資を送ることもできない状況で…
自分がとてものんきに生きているというか、ストレスのない状況下にいて「今あなたは一生懸命生きているの?」と問われたときに、熊本のみなさんに対して、胸を張って「はい」と言えない自分に強い違和感を感じました。
じゃあ私には何ができるだろうと考えた結果、自分にはバドミントンしかないなって。全力でもう一度オリンピックに挑戦してみよう!とチャレンジすることで、みなさんに恥ずかしくない生き方ができるんじゃないかなと思って復帰を決めました。
でもロンドンオリンピックに行くまでの、5年間くらいは毎日が本当に辛かったですね…逃げたい、逃げられない、やらなきゃいけない、勝たなきゃいけないの繰り返しで
山田 逃げたいと思ったときに逃げ出さない気持ちの強さが、一番大事なんでしょうね。
藤井 本当に逃げようと思えば逃げ出せるので、気持ちは絶対に大事ですね。私は5歳からバドミントンを始めて、ずっと期待されて生きてきたので苦しい部分もありました。自分自身にキツイ練習やトレーニングにちゃんと向き合えるのかと、何度も問いただしてちゃんと死ぬ気で頑張れるという覚悟を決めたので復帰しました。
山田 今回も「引退したら何をしたいですか?」とかよく聞かれるんじゃないですか?
藤井 よく聞かれますね。でも私の場合は、ドイツに留学した3年間があるので、今はまったくそんなことは思わずに、「働きたい!誰かの役に立ちたい!」と思う気持ちが強いです。だから今マネージャーにもどんどん仕事を入れてくださいって言っています(笑)
藤井選手と山田社長の白熱のトークラリーの後編はこちらから!