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【ロングインタビュー90分1本勝負!前編】伝説のプロレスラー藤波辰爾 VS 水産業界の革命児 山田信太郎がプロレスへの熱い想いを語る!

アスリートたちにとって、日本を代表して戦うことは特別な想いがあり、そこに至るまでの熱いストーリーがあります。大事な試合に挑むのは孤独な戦いかもしれません。しかし頑張るアスリートのために、山田水産にも何かできることがあるのではないだろうか、そんな想いから誕生した「山田の“勝負メシ”プロジェクト」

古くから人々の”元気の源”として愛されてきたうなぎを、現代のアスリートに”エネルギー源”として提供し、食を通してアスリートのみなさんのサポートをしよう!私たちはこう決意しました。

この企画では、プロジェクトの発起人であり、自身もマラソンsub3.5ランナーとして別大マラソンへの出場も果たす自称アスリート(素人)の山田信太郎社長が、日本を担うアスリートと対談し、スポーツの魅力と食べることの大切さをクローズアップします。

山田の“勝負メシプロジェクトとは
きっかけは2015年ラグビーワールドカップ。ジャイアントキリングを成し遂げた日本代表が、試合前の前日に食べたのは「うなぎ」。
私たち、山田水産の創業から変わらないこだわりは「Made in Japan」。
彼らと同じように私たちも日の丸背負って戦う気持ちは一緒です。
中小企業はWカップには出場できませんが、私たちのうなぎを食べてもらうことによって、アスリートをサポートしながら、一緒に世界に挑戦したいという想いからこのプロジェクトはスタートしました。

出典:山田の勝負メシプロジェクト

現役生活50周年を迎えた、
伝説のプロレスラー藤波辰爾さんが語るプロレスへの想い

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今回のゲストは、昨年でデビュー50周年を迎えた伝説のプロレスラー、ドラゴンこと藤波辰爾さんです。5月に志布志市にある『うなぎの駅』で山田水産初のプロレスイベントを終え、プロレス熱が冷めやらぬ山田社長との今回の対談。デビュー当時のおはなしから師匠である猪木さんとのエピソード、現役生活に対する想いや日頃の食生活まで余すことなくおはなしいただきました!

プロフィール

藤波辰爾 選手
1970年6月、16歳で日本プロレスに入門。翌1971年5月9日デビュー。
72年3月、新日本プロレス旗揚げ戦の第1試合に出場。同年12月に開催された第1回カールゴッチ杯で優勝し、75年6月に海外遠征へ出発。欧州や米国、メキシコ各国を転戦。カール・ゴッチ氏のもとで修行を積み、 78年1月にWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得した。81年末にヘビー級転向を宣言。飛龍十番勝負を戦い続け、WWFインターナショナル・ヘビー級王座をも獲得。翌82年10月にメキシコ遠征から帰国した長州力に挑発される形で、ライバル抗争に突入。両雄の戦いは「名勝負数え唄」と呼ばれ、スピーディな展開でヘビー級のプロレスにも変化を与えた。 新日本プロレスのエースとして活躍し、95年10月、自主興行『無我』を旗揚げ。99年6月からは5年間に渡り新日本プロレスの代表取締役社長を務めた。 06年6月30日付けで新日本を退団し、同年8月に『無我ワールド・プロレスリング』を旗揚げ。 08年1月より団体名を『ドラディション』へと変更した。11年5月にレスラー生活40周年、 13年には還暦を迎え、 15年3月には日本人選手2人目となる (一人目はアントニオ猪木) 米国 WWEの殿堂入りを果たした。 17年にはデビュー45周年を迎え、記念大会を開催。 プロレス生活49年を迎えた現在も、 他団体に積極的に参戦するなど、現役選手として活躍中。

出典:藤波辰爾 選手プロフィール ドラディション公式サイト

食べることに貪欲な人こそが強いプロレスラーになれる

山田 まずはデビュー50周年おめでとうございます!

藤波 ありがとうございます。昨年がデビュー50周年の年で、今年で51年目を迎えることができました。ちょうど50周年の興行がスタートした頃に新型コロナウイルス感染症が拡大し始めてしまって、1年大会を開催することができなかったんですが、2022年12月1日にやっと50周年の記念大会を代々木体育館で開催できる目処が立ちました。

山田 ファンのみなさんも今からとても楽しみにされていると思います。子どもの頃からずっと藤波さんのご活躍を拝見していたので、こうしておはなしお伺いできてとても嬉しいです。藤波さんが別の企画で、志布志市の「うなぎの駅」に撮影でいらしてくださったときは、社員もみんなとても喜んでいました。今日はプロレスファンとしていろいろなおはなしを聞かせていただきたいと思います!

藤波 こちらこそよろしくお願いします。今日の鰻重も本当に美味しかったです!小鉢のキンピラも美味しかったな〜

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山田 ありがとうございます。藤波さんは今も現役でご活躍されているわけですが、若手の頃から食生活で気をつけていらっしゃることはありますか?
 
藤波 今の選手はいろいろと気をつけている選手も多いみたいですが、僕らの頃は好き嫌いを言わずに食べるように言われていた時代ですから、作ってもらったものを何でも食べていましたね。
 
山田 スポーツにとって食事はとても大事ですよね。

藤波 そうですね、食べるのがまずは第一ですね!たくさん食べられる選手はやっぱり強いと思います。食べられる選手の底力は強いんです。
 
山田 鰻と一緒ですね。たくさん餌を食べられる鰻は身の質がよくなるんですよ。食べられる意欲のある鰻を食べることでパワーがでます。
 
藤波 地方巡業に行くときも現地で必ず身体にいいおやつを買って食べていましたね。特に鰻の骨せんべいをいつもバリバリと食べていました。骨が強いのもそのおかげだと思っています。
 
山田 サプリやプロテインはまだあまりメジャーではない時代ですよね?
 
藤波 なかったですね。だから今でもサプリもプロテインも飲まないですね。
 
山田 そうなんですか!50年も現役で活躍されていて、ノーサプリとは驚きました!

藤波 我々の若い頃に比べて、今の若手選手は身体の見栄えはいいんだけど、厚みはないなと思いますね。あと骨が細い!私たちはよく骨太だと言われていましたから。

山田 確かに昔のレスラーはみんな厚みがありましたよね。身体の厚みは食べる以外に何が影響していると思いますか?
 
藤波 トレーニングのやり方ももちろん違うと思いますね。あとは日光浴ですかね。昔は選手は移動中でも宿舎についても、ちょっと太陽が出ていれば、積極的に肌を焼いていました。
 
山田 意識して焼いていたんですね。サイパンでの合宿も雑誌に載っていましたよね。
 
藤波 そうですね。僕も昔は月に1回サイパンに行っていましたよ。でもやっぱり食べることに貪欲であることでしょうね。僕は食べることが大好きだから、強い身体になれたんだと思います。汗をたくさんかきながら、熱いちゃんこをいっぱい食べることも、練習のひとつでしたね。

山田 お酒は飲まれるんですか?
 
藤波 もちろん飲みますよ!でも昔のようにビールをがぶ飲みしたりはしません(笑) 今は晩酌で焼酎を1〜2杯というくらいですね。雰囲気を楽しむ感じですね。
 
山田 防衛戦のあとの週刊プロレスを見ると、みなさんビールで大宴会されてましたよね。
 
藤波 昔はビールで身体を太らせるぞ!とか言って、ちゃんこを食べるときもビールを丼に入れて飲んでましたからね。今考えると身体によくないですよね(笑)

山田 藤波さんは若手の頃から、体格の印象が変わらない気がするんですが実際いかがですか?
 
藤波 ここ何年かは体重をあまり落とさないように意識していますね。僕にとってリングに上がることが健康管理のひとつなんだと思います。健康でいるために、現役でいるようなものですね。腰のケガや胆石などは多少はありますが、他はあまりないですね。
 
山田 猪木さんはどんな食生活だったんですか?
 
藤波 猪木さんは地方でも行く先々で馴染みの店があるので、そこで食べていることも多かったですけど、選手たちと一緒に旅館の大広間で和気あいあいと食事をすることもありましたよ。

山田 プロレスラーの方は鰻がお好きな方が多いですよね。縁起物や勝負メシとして試合前に食べているというおはなしをよく聞きます。
 
藤波 やっぱり鰻は食べると元気がでますからね!みんな昔から食べてましたね。鹿児島に行くと、猪木さんが天文館の近くの鰻屋さんに連れていってくれるんですよ。それがとても嬉しかったですね。

必殺技「ドラゴン・スープレックス」はすべての試合では見られない!?

山田 当時は年間で約260試合も開催されていると聞きました。260試合に耐えうる身体って本当に強靭な肉体ですよね。
 
藤波 そうですね。今は年間120試合くらいだと思うので、そう考えるとすごい数ですよね。
 
山田 試合に出ることが日常のトレーニングみたいなものですね!当時の試合を思い出すと、みなさん必殺技って1人1つで、試合中に出るか出ないかだったと思うんです。でもリングインされただけで、選手のオーラで会場のボルテージが上がっていたのが印象的でした。
 
藤波 昔は組み合う前に、息遣いや相手との間だけでお客さんが盛り上がっていたんですよ。きっとみなさん想像力が豊かだったんでしょうね。今は派手に動いて、技をたくさん決めるのがプロレスだと思っている方も多いんじゃないかと思います。
 
山田 そうかもしれないですね。僕も長年プロレス観てきましたけど、藤波さんの必殺技、ドラゴン・スープレックスを見たのは1回くらいしかないように思います。
 
藤波  その通り!実はあんまりやってないんです。当時は、必殺技が毎回出ることなんてありえませんでしたからね。
 
山田 藤波さんがフルネルソンになったり、スタンハンセンがサポーターをずり上げたりするだけで、会場がわーっ!と沸いていましたよね。
 
藤波 地方を転戦していると、何年か振りに試合を見る人たちもいるから、本当は技を決めて欲しいんですよね。だからヒット曲じゃないですけど、どの会場でもやりたいという想いはあるけど、自分の身体への負担を考えるとそう毎回できることではないんですよね。ドラゴン・スープレックスなんて、相手はもちろんですが、自分の首にかかる負担はもっと大きいですからね。
 
山田 フルネルソンで投げてましたよね!藤波さんがドラゴン・スープレックスをあまりやっていなかったというのがわかってよかったです(笑)
 
藤波 ドラゴン・ロケットもあまりやってないですよ!一見、平気でやってるように見えるかもしれないですけど、そんなことないですからね(笑)
 
山田 今のおはなしは僕らの仕事にも通じるところがあるなと思いました。昔は商談やプレゼンをきちんと対面でやっていましたけど、今はメールやオンラインで完結してしまうんですよね。技術に頼りすぎていて、本質を見失ってしまっている気がします。
この前DDTの試合で、越中さんと秋山さんが対峙しただけで、僕はゾクっとしたんですけど、そういうオーラとか雰囲気って本当に大事だなと思いました。

ファン必見!新日本プロレス旗揚げ時代の貴重なエピソード

山田 新日本プロレス(以下、新日)を猪木さんが旗揚げしたとき、藤浪さん、木戸修さん、北沢幹之さん、柴田勝久さん、ユセフ・トルコさんの6人が在籍されていたんですよね?カール・ゴッチさんはまだ現役だったんですか?
 
藤波  ゴッチさんは新日本プロレス旗揚げ戦の猪木さんとの試合が最後でしたね。
 
山田 その頃の藤波さんの体重はどれくらいだったんですか?
 
藤波 72kgくらいですかね。
 
山田 スクワット何千回というトレーニングは実際にされてたんですか?
 
藤波 根性論の世界ですからね。カール・ゴッチさんは理論的なんですけど、山本小鉄さんなんて特に根性論でした(笑) ゴッチさんは身体の造りを理解した上で、どこを攻めたらいいのかということを教えてくれましたね。テコの原理を使って短く締めれば、どんなに太い腕でも逆十字が取れるとか実践的なアドバイスをしてもらっていました。

全日本プロレス(以下、全日)の頃もコーチはいましたが、専門的に勉強している人は少なかったので、とてもありがたかったですね。ゴッチさんにはよく、「全日で習ったことは全部頭の中から捨てろ!」と言われていました。

その辺りから坂口征二さんが合流して、新日の選手層が厚くなって、トーナメントができるようになっていって。そこで優勝したんで、そのご褒美にヨーロッパ遠征をしていました。

山田 ヤングライオン杯の初代王者は藤波さんなんですか!?
 
藤波 そうですよ。
 
山田 すごいですね!そこから海外遠征に行かれるようになったんですね。
 
藤波 ゴッチさんがドイツ出身なので、ドイツを皮切りに1年くらい海外にいました。
 
山田 ドイツと言えば、僕の中でローラン・ボックなんですが、もう引退していました?
 
藤波 ローラン・ボックは、たまたま日本に来たときに、プロのリングに上げられただけで、実はアマチュアの選手なんですよ。
 
山田 そうなんですか!?それは衝撃的ですね!あんなに強かったのに、アマチュアだったとは…。そういう選手をリングに上げるなんて、やっぱり新日は演出がうまいですね。
 
藤波 演出がうまいんじゃなくて、そういう選手しか呼べなかったんですよ。アメリカの有名な選手は、NWAに加盟している全日のリングに上がってしまうんですよね。
 
山田 リック・フレアー、ハーリー・レース、ニックポック・ウィンクルなんかも、確かに全日でしたね。
 
藤波 猪木さんはゴッチさんをツテにヨーロッパの選手を招いていました。ヨーロッパの選手はアメリカの選手に比べたら地味なんですが、コアなファンも多いですし、テクニックもあったので人気でしたね。
 
山田 今藤浪さんのおはなしをお聞きしていて、僕も当時の記憶を辿ってみると、全日は確かにコスチュームも華やかな選手が多くて、新日はTシャツ1枚の無骨な選手が多かったですね。
 
藤波 もともとプロレスの発祥は、ヨーロッパですからね。炭鉱の街で、休憩時間に金を賭けて楽しんでいたのがプロレスのルーツで、そこでゴッチさんやニル・ロビンソンが試合をしていたわけですね。そういう経緯もあって、昔息子のLEONAもマンチェスターに行かせました。
 
山田 ゴッチさんは、決め技はもちろんセメント(真剣勝負)でも勝てる技を教えていたんですか?
 
藤波 そうですね、お客さんに受ける派手な技は一切無視してましたね。「リング上で戦う上で、派手な動きなんて必要か?」なんてところから始まるんです(笑) 

打倒全日!新日本プロレスはプロレス界のベンチャー企業

山田 僕らファンは全日と新日の歴史を本で読んでるんですけど、新日は今で言うベンチャー企業みたいなものですよね。
 
藤波 そうですね、最初の頃は月に2〜3回試合が組めればいい方でした。地方の興行を仕切るプロモーターのほとんどが、全日とばかり組むので、新日は自主興行でした。
 
山田 そこを猪木さんのベンチャーの力というか、その逆境が気性にあったんですね。
 
藤波 猪木さんも一言目には「馬場に負けるな!全日本プロレスに負けるな!」でしたからね。社員も選手もみんなで号令かけてやってましたよ。
 
山田 その頃は、新日に藤浪さんという若手の有望株がいて、全日にはジャンボさんがいたんですか?
 
藤波 ジャンボはまだですね。僕も最初は泣かず飛ばずで戦力外でしたよ。海外に行って、やっとレスラーとしての道が開けていったという感じですね。

山田 ジュニアヘビー級を作ったのも新日ですよね?
 
藤波 体重測定があるわけではないので、ジュニアヘビーとヘビーの境目はないんですけどね。僕はずっとジュニアギリギリで、いつも102〜3kgくらいだったんじゃないかな?今は外国人選手のほとんどが100kgオーバーだと思いますよ。
 
山田 チャボ・ゲレロとかですよね?
 
藤波 そうですね、チャボは100kgなかったくらいだったと思いますね。
 
山田 佐山さんがきたときくらいですね。佐山さんがきたことで、藤波さんがヘビーに移行されましたよね。
 
藤波 佐山はちょうどいいタイミングでしたね。彼はずば抜けた体幹を持っていて、運動神経もすごかったですね。
 
山田 藤波さんたちからみてもすごいんですか?
 
藤波 彼はすごかったですね!タイガー・マスクは佐山のためにあったようなものですね。彼だからタイガー・マスクが人気になったんでしょうね。
 
山田 あれは子どもたちもみんな熱狂しますよね。藤波さんとマスカラスがタッグを組んだ試合が印象的でした。
 
藤波 全日本と新日本のオールスター戦ですね。僕と鶴田とマスカラスがタッグを組んだ試合ですね。
 
山田 そうです!すごい時代ですよね。マスカラスはまだご健在ですか?
 
藤波 健在ですよ!僕が独立してからも2回くらい来てくれましたね。マスクをして、スカイハイに乗って登場するとお客さんは喜びますよね。もう1回呼びたいなと思っているんですよね。
 
山田 あの頃入場曲で会場が沸くと言ったら、マスカラスでしたもんね。
 
藤波 日本で一番マスクを売った選手でしょうね。売上はデストロイヤー以上ですよきっと。
 
山田 もちろん僕も小さい頃、スギノイパレスで買いました(笑)

演出からスイッチングまでこなす究極の経営者 アントニオ猪木

山田 おはなしをお聞きしていると、全日があって、新日があってというプロレスの歴史の中で、やはり猪木さんの偉大さを感じますね。
 
藤波 そうですね。猪木さん自身がこれでいいという人ではなくて、常に新しいことに挑戦していましたからね。
 
山田 猪木さんは上昇志向を持った究極の経営者なんですね。
 
藤波 動物的な勘というのか、常に危機感を持っていましたね。猪木さんが全日を除名されて、新日を立ち上げた翌日にブルドーザーで庭をすべて更地にして、そこに道場を立てましたから。

山田 判断力と判断力が素晴らしいんですね。

藤波 猪木さんはいつも試合がどう見えているかを考えていて、マンネリにならないように工夫していましたね。テレビの視聴率が20%だった全盛期のときでも、猪木さん自身が中継をモニターで見て、「なんでこんなアングルで撮ってるんだ!」と怒ってましたから。備え付けのカメラが数台とハンディカメラが数台あったんですけど、カメラが動きを追いきれてなかったりすると、猪木さんが細かく指示を出すんです。
 
山田 演出家ですね!
 
藤波 そうなんですよ。だからよく猪木さんはね、会場の外にある中継車にいましたね。そこでスイッチングをもするんです(笑)
 
山田 それはすごい!(笑) 
 
藤波 猪木さんはそういうところまで、関わってましたね。お客さんの入りがあまりよくないときに、テレビに映るところに空席が見えないように、お客さんを動かすくらい、細部まで神経を行き渡らせてましたね。

山田 猪木さんは試合の演出もしつつ、選挙にも出られて。
 
藤波 そうですね。猪木さんは常々、誰もやっていないことをやりたいと言っていましたからね。応援演説にも行きましたよ!猪木さんが掲げるテーマが、やはり普通の政治家には掲げられないような大きなものでしたからね。それにみんなが憧れて、今もプロレスラーから政界に進出する人は多いです。
 
山田 トップ当選したときは、プロレス好きとしてすごく感動しました。
 
藤波 ダントツの票数で勝ちましたね。投票用紙に本当は「猪木寛至」って書かないといけなかったんですけど、結構な数の人が「アントニオ猪木」と書いて、無効票になってたみたいですけどね(笑)
 
山田 国会で馳浩さんと猪木さんが対峙したときなんて、プロレスファンとしてちょっと泣きそうになりました。国会の予算委員会で、「元気ですかー!」と言って怒られていたのもよかったです(笑)
 
藤波 それが猪木さんなんですよ。普通我々だと国会でこんなことやっちゃダメだろうと気にすることでも、猪木さんはやってみてあとから起きることを処理すればいいんだと思ってますからね。
 
山田 それが猪木さんの原点でもあるんでしょうね。新日の旗揚げやモハメド・アリとの試合もそうですよね。
 
藤波 思ったことを実現させてしまう力もすごいですし、何より発想力が素晴らしいですよね。

山田 その頃に、新日のライオンマークが誕生したんですよね?
 
藤波 新日が旗揚げするぞ!というときに社名やロゴマークがいるだろうということで、私と山本小鉄さんで作りました。全日は日本プロレスから引き継いだ王冠マークがありましたけど、新日は何もなかったので、2人でさあどうしようかって。ちゃんこ食べながら考えていたから、どんぶりを画用紙の上に置いて丸を書いてね。ライオンマークはそこから始まったんですよ。

山本さんは虎がいいんじゃないかっていってたんですけど、動物の王様はライオンだろうということになりました。私たちが手書きしたものをデザイナーに持っていって、あのマークにしてもらいました。色も何パターンか考えてもらいましたね。
 
山田 今からでもデザイン料をもらわないといけないですね(笑)
 
藤波 当時書いたものが残っていればなあ。価値がついて『何でも鑑定団』に出れたかもしれないな(笑)
 
山田 何百万も何千万もしますよね!それから10年くらい経って、タイガーマスクが登場した記憶があります。
 
藤波 僕が海外にいた頃なので、それくらいの時期ですね。長州がいて、前田と狭山、山崎、高田と続いていきましたね。当時テレビ朝日の視聴率が20%以上の頃ですからね。僕らも1ヶ月に1回くらいはテレビ局に打ち合わせに行くんですけど、そうすると必ず視聴率の紙が貼ってあるんです。いつも『ワールドプロレスリング』がダントツ1位でしたね。それに続いて、『太陽に吠えろ』があったり。


15,000字を超える今回のロングインタビュー、みなさまお楽しみいただけていますでしょうか?ここで一旦後半戦へ向けてブレイクタイム。

一休みしたら続きは、こちらからお楽しみください!