目的と手段と本質と部屋とTシャツと私
#自分にとって大切なこと というハッシュタグがお題としてTOPページにあったので、ちょっと考えてみる。
自分にとって大切なことってほどじゃないけど、「相手にとって、その行動の本質はなんだろう?」と考えることは常に意識している。
本質ってのは、目的って意味でもある。
ささいなことでも、そこには必ず目的があるわけだし、それがその行動や存在の本質となると思っている。
そして、本質ってのは相対的なもので、行動を起こす人と影響を受ける人によって本質は180度変わる。
たとえば、プラモデル。
私の場合、プラモデルは作ることを目的として購入する。
なので、完成させることにはこだわってないし、なんなら作らずに箱にしまったまま「いつ作ろうかなぁ」と眺めることも楽しみの一つとしてある。
しかし、世の中の多くの奥様は、「完成させて飾る」ことが目的だと勘違いしている。
そして、「作らないで積んでるだけなら買うな!場所を取る!」みたいなケンカに発展する。
本質ってのは相対的なものなので、「なんのために買ったのか?」がお互いに違うということを理解しないと、こういうことがおきる。
その点うちの奥さんは何事にしても、「なにか目的があるんだろう」ということを理解してくれてるので、ありがたい。これでおっぱい一揉みです。
※おっぱいについてはこちらを参照
ものごとにはすべて本質がある。
たとえそれがネガティブなものだったり、惰性や怠惰な行動でも、それは変わらない。
その本質をどう捉えて、自分の感情や行動とどう折り合いをつけるかか大事になってくる。
子どもが部屋にTシャツを脱ぎっぱなしにしてゲームをしてた。
「脱ぎっぱなしにしないで片付けろ!」と怒るのは簡単だけど、それは単純に自分の感情であって、本質ではない。
そこで、なんで脱ぎっぱなしにしたんだろ? という理由を考える。
早くゲームをやりたかったから。面倒臭かったから。などいくつか理由が考えられる。
そのうえで、「これが習慣になったらダメだ」「整理整頓させないとだな」「ゲームばかりじゃなく自制も覚えて欲しい」などが頭に浮かび、そして「脱ぎっぱなしにしないで片付けろ!」と怒る。
ついでに「宿題をやったのか?」「昨日も脱ぎっぱなしだった」「ゲームばかりやってるんじゃない」など、グチグチ言う。
第三者から見れば、怒ったということで結果は同じなんだろうけど、自分的には、本質はなんだろう?というワンクッションがあることでより深い怒り方ができてると思っている。
ここが重要。
感情や自分の利益のみを優先させるんじゃなく、一度相手の立場になって考えることで、本質はなんだろうと予測し、双方にとってモアベターな結果を求めることができる。と思っている。小森のオバチャマです。
私はこうして仕事でも日常でも、常に本質は何かを考えるようにしている。
するとたまに「なんでわかったんですか?」と聞かれることがある。
その時はかならずこう言うようにしている
「だって俺、エスパー3級」だから