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【小説】漆黒の焔佇むところ

前作で「焼き魚食道」を大成功させた文月は、いくつかの案件を片付けた後地域のコミュニティ改革に参加していた。そんなある日、突然の来客から依頼を受けた。相手は経営が苦しい、地域の百貨店だった。東京の老舗百貨店でさえも、支店を閉店しているという。正直なところ百貨店など時代遅れだと思っていた文月だが、一度クライアントになれば全身全霊で調査を始める。そして必ず勝たねばならない。彼が今回目をつけたのは、なんと ───


「本日はご来店いただき、まことにありがとうございます」
 ショーウインドウでは初夏の爽やかなアズールブルーに彩られた背景に、マネキンが躍動的なポーズを取る。
 正面玄関のガラスドアにステンレスの肉厚の湧くが煌めく。
 買い物客の笑い声とともに、中へと吸い込まれていく流れが止むことはない。
 夫人物の小物やネックレスのガラスケースの向こうから、きちんと両手を揃えて頭を下げる女性店員には気品があった。
 入口の特設コーナーに、夏用の帽子が並び季節感を出している。
 客の群れはエスカレーターに向けてほとんどが流れ、一部エレベーターの方へと向かう。
 人の流れも滞りがない。
 キョロキョロと辺りを見回しながら、瑞樹みずき るりはスマホに何かを打ち込んでいる。
 黑い帽子を目深まぶかかぶり、上下共に黒いフォーマルな印象のシャツとパンツ。
 化粧品売り場では、カウンターにあるおびただしい量のテスターが並び客がカウンターの前の椅子に腰かけて店員と談笑している。
 巨大なポスターが並び、強い照明で金属やガラスの光沢感を際立たせる演出をする。
 百貨店は、長年つちかったノウハウがある。
 注意深く観察していれば、洗練されたデザインと販売促進のコツを見いだすことができた。
 ハンドバッグが並んだ一角に、白髪交じりの男が立っている。
 落ち着いたたたずまいだが、周囲の様子を伺いながら店員に指示を出しているようだ。
 瑞樹は革製のショルダーバッグから名刺を取り出して、男に差し出した。
「コンサルタントの瑞樹さんですね。
 お噂は近隣の商店街に広がっていますよ」
 口角を上げて目尻を下げ、満面の笑みを作った男は青山 翔太あおやま しょうたと名乗り、販売促進部長と名刺に書かれていた。
 もう一人、40歳くらいの女性が着いてきた。
 こちらは秋山 美咲あきやま みさきと言い、同じく販売促進部の社員だった。
 化粧とスーツの着こなしは、瑞樹が引け目を感じるほど身ぎれいに整えている。
 青山部長は屈託なく笑い、気さくな話し方をするが、立ち居振る舞いに一分のすきもない。
 まだ29歳の瑞樹は、早くも雰囲気に飲まれかけていた。

 手狭なオフィスの机には、うず高く積まれた本が並び、窓からの光とデスクライトで照らされた男が眉間にしわを寄せて、次々にページをめくる。
「戻りました」
 少々疲れた声を出した瑞樹が、隣りのデスクにバッグを置くと、椅子にストンと腰を落とした。
「ああ、で、どんな話だった」
 本から目を離さずに文月 優斗ふづき ゆうとが聞いた。
「どうもこうも、百貨店は完成されたデザインで固められていて、私が指導することなんて、ないと思うのだけど ───」
 小さくため息を吐いて、横目で文月の様子をうかがっていたが、やれやれといった風に肩をすくめた。
「君よりも年配の販売促進部に指導するのだから、それなりの準備がいるはずだ」
「文月さん、もう何か仕込んでいるのでしょう。
 黒ずくめの服装で行ったのは、何のためなんです」
 少々苛立いらだった声を出した。
 ようやく本から視線を上げて、瑞樹の方に向き直った彼の顔には、鋭い眼差しと引き結んだ口元が緊張感をかもし出している。
「俺は、今回最初から勘違いをしていた。
 百貨店は地域のリソースとして、優れた存在だった。
 小手先の技術はまったく通用しないだろうな」
 息を飲んだ瑞樹の顔にも、緊張が移ったようだった。
 クライアントの方が、用意周到に依頼内容を精査して資料を大量に示してきた。
 本来こちらの仕事だが、先手を取られてすでに負けた気分になって帰ったのだった。
「SDGsがキーワードだろう」
 ズバリと言い当てられて、次の言葉が出なかった。
 今回の依頼主である、セレスト・パレ・ミナミ百貨店は、埼玉県南区デジタルタウンの中心に位置する。
 人の流れが良い繁華街にあり、表向きはにぎわっていた。
 そして、内陸部のため夏の猛暑でも有名である。
 屋上でビアガーデンを開いていたが、最近は客足が減ってやめていた。
 ところどころにほころびがあるはずだが、それを補って余りあるほどのきらめく演出と賑わいがあった。
 瑞樹はもう一つため息をついて、ワープロを打ち始めた。


 セレスト百貨店の前には、スレートの歩道が観光地へと伸びている。
 反対側には駅があり、近づくほどに人混みがしていく。
 商店街をざっと見たところ飲食店や格安を武器にしたチェーン店が多く、専門店が少ない。
 いくつか看板や店の外装を写真に収め、スケッチをしてから一息つくように、セレストのベンチに腰かけた。
 文月から送られてきたデータを、スマホで開いて見ていた女は20代半ばだろうか。
 そこへ瑞樹が額の汗をハンカチで慎重に拭いながらやってきた。
神楽 椿かぐら つばきさん ───」
 呼ばれて弾かれたように立ち上がると、スマホをビジネスバッグに放り込んだ。
 2人とも文月の指示で黒いフォーマルで引き締まったいで立ちに、ベレー帽を目深に被っていた。
 足元から頭まで、視線でゆっくりとなぞる瑞樹は、またため息をつく。
「若い人が着るとフォーマルもいいなって思いますね」
「文月さんに考えがあってのことだと思います。
 でも、なぜ全身黒なのでしょう」
 瑞樹の方が聞きたいくらいだが、年下のデザイナーに聞かれると同調もできなかった。
 神楽は美大を出て数年しかたっていない、駆け出しのデザイナーで今回の案件のパートナーとして、他の事務所から文月が指名したのだった。
「きっと、今回の戦略のかなめになっていると思います。
 恐らくターゲットがビジネスマンなのでは ───」
 自分の口から出た言葉に、瑞樹はいかづちに打たれた。
 目を見開いて、口を開けたまま脳に広がる世界をセレストの人混みに重ねた。
 そうだ、よく見てみれば休日にカジュアルな服装をしているのは当たり前だった。
 子ども連れが少なくて、同年代の同性、お年寄りと中年、そして独りで来る顧客が多い。
 百貨店と言えば子ども向けのイベントを開いて親をるものだと思い込んでいた。
「リサーチの第一段階は、入口に立って観察することです」
 指し示した方を見て、神楽がうなった。
「お客さんが、たくさん来ていて経営に困っている感じはしませんね ───」
「想像してください。
 この方たちが、普段どんな暮らしをしているかを」
 身を乗り出して、眺めていた神楽は、困ったように肩をすくめて見せた。
「リサーチって、難しいですね」

 事務所へ戻った2人は、写真やリサーチしたデータを入力して一息ついた。
「それにしても、コンサルを専門にされてる方の分析力はすごいです。
 私はまだまだで ───」
 神楽は瑞樹の4つ下だが、童顔で高校生のようなあどけなさがあった。
 ブラインドの隙間すきまから夕日が規則的な筋を落とし、空気が少しひんやりとして来ていた。
 自分より経験が浅いデザイナーと共に行動することで、瑞樹の脳裏にあった もやもやが晴れつつあった。
 隣りにいなくても、てのひらで転がすように思考のあやを解きほぐしていく。
 同じ土俵で戦い続け、負け続けている辛さに飲まれかけていた自分の心情を理解して、絶妙なパートナーを選んでくれた。
 だが、分かっているからこそ従えない。
 自分の意地を通したい気持ちが、背後で陽炎かげろうのように黒い炎となって ゆらめくのを感じた。
「それで、SDGsに関連したイベントを企画して欲しい、というのが今回のメインの仕事ですよね」
「率直に、どんなイメージ持った」
 瑞樹は鋭い視線を向けた。
「2030年を目標に、持続可能な社会を作る良い行いリストですか」
「ちょっと違うわ。
 将来の世代を意識することによって、企業の利益を産みだす取り組みと言った方が今回の案件には合うんじゃないかしら」
 頬杖ほおづえを突いた神楽の眉間みけん縦皺たてじわが刻まれる。
 2人とも、しばらく唸ってはパソコンで何かを調べていた。
 ふと、文月の机に視線をやると、書置きがあった。
「今日は直帰します。
 明日、別の件でセレストへ行くので、進捗しんちょく報告を一緒にしてください。 文月」
 今日の明日で報告するのか、とため息をついた所で神楽が立ち上がった。
「リサイクル商品を提案するとか、お客さんが増えるようなクーポンとかセールとか作りましょうか」
 違和感を隠せない瑞樹の表情に、神楽も少しひるんだが決然とした覚悟を眼差しに秘めていた。
「そうね、まずは具体的な提案が必要でしょうね」
 曖昧あいまいな返事をして、残りの仕事は各自家に持ち帰ることにした。

 翌日、文月も黒いジャケットに黒スラックス、黒シャツでカンカン帽といういで立ちである。
 3人がセレストのロビーで手持無沙汰に待っていると、買い物客が好奇の目を向けてきた。
「何かのコスプレだと思われてるんじゃないかしら ───」
「もう、なんでこのファッションなんですか」
 苛々を爆発させた瑞樹は、ついに文月に詰め寄った。
「君も、大体理解していると思うのだけどなあ ───」
 あさっての方向を見ながら、手のひらを返して大袈裟おおげさに肩をすくめたポーズが、妙に似合っていて次の言葉が出なかった。
「まあまあ、楽しんでいきましょうよ」
 神楽は足を組んで腰に手をやり、床に視線をやって不可解なポーズを取る。
 まるで3体のマネキンが身をよじっているように、近付きがたいムードをかもし出していた。
「ああ、文月さん。
 瑞樹さんも、お世話になります」
 先日の青山部長が奥へと促した。
 通用口を入り、会議室へ入ると文月が切り出した。
「セレスト様の成長戦略を考えてきました。
 その前に、瑞樹から報告があります」
 目くばせを受けて、バッグからタブレットを取り出した瑞樹は、テーブルの端に置いて話し始めた。
「名付けて『氷のメッセージ ~ 人影が語り掛ける未来 ~ 』です。
 氷屋さんの低温でじっくり作った純氷じゅんぴょうを人型に並べます。
 もう一つは黒い紙の上で同じように人型を作るのです。
 人間が生きていくためには、氷が自然な状況に保たれなくてはならない。
 つまり、地球温暖化に対するメッセージが込められているのです
 いかがですか、この企画で注目度爆上がりですよ」
 言い切った瑞樹は、糸が切れた操り人形のように椅子にストンと落ちた。
 青山部長は、ポカンと口を開けたまま液晶画面を見つめている。
 神楽は、不意打ちでも食らったように目を見開き、瑞樹の横顔を凝視したままである。
 あごこぶしを当てたまま、瞑目めいもくしていた文月は静かに目を開けた。
 瑞樹が唾を飲み込む音が、神楽の鼓膜を揺らした。
「これで、大丈夫ですか」
 おずおずと青山が声を絞り出す。
 机に視線を落とし、また瞑目した文月はコクリとうなづいた。

 イベントの打ち合わせのために、セレストの屋上へやってきた瑞樹はだだっ広い空間を横切ってフェンス際までやってきた。
 後について、青山部長と神楽が周囲を値踏みするように見回しながら歩く。
「け、結構広いのですね ───」
 数年前まで、バブル期を思わせるような屋上遊園地を営業していた場所は、跡形もなく片付けられて、コンクリートを空色に塗装した床面があるのみだった。
 中央に白い台を2つ設置して、同じ氷人形を1つい設置する。
 撮影する方向や、コンテンツの配信方法を検討して準備に取り掛かる。
 まずは氷制作ドキュメンタリーとして、天然の氷を切り出しおがくずにくるんで保存するところ、それをつなぎ合わせて彫刻する映像が制作された。
 これは「予告編」として動画配信サイトから放送された。
 同時にSNSでも写真とエッセイがつづられた。
 神楽のインフィード広告によって、瑞樹のストーリーが映像化され、期間を区切って氷の出来栄えを追いかけていく。
 そしてイベント当日を迎えた。
「瑞樹さん、本当に大丈夫でしょうか。
 私、足が震えてます」
 黒一色の神楽は、腰が抜けたように椅子に座ったきり立てなくなった。
「もう、文月もあなたも信用してないのでしょう。
 ここまで来たら、デンと構えなさいよ」
 少々苛立った声でたしなめたとき、2つの木箱が到着した。
 等身大のアイスボックスなどないので、梱包材こんぽうざいの専門業者に特注で作らせたものだった。
 改めて見ると、立派な箱に自分の思い付きが塊になって収まっていることが滑稽こっけいにさえ思えた。
「やっぱり、この日がきちゃったのね」
 ボソリとつぶやいた瑞樹は、箱に近づくと封を解いた。
 あっという間に梱包材が取り除かれ、氷が姿を現した。
「MRIとか、何千万もする医療機器を運ぶ時の梱包と同じなんだってさ ───」
 あまりのスケールに面食らうばかりの神楽には、うわごとのように頼りなく聞こえた。
 片方には黒い紙が半分貼り付けられていた。
 誰も声を出さず、淡々たんたんとスタッフが設置する模様もライブ配信された。
 最早もはや、現実味のない光景がスマホの画面にも映し出されていたのだった。

 黑い氷人形の台座に「黒曜こくよう」と名前が大きな書道文字でダイナミックに書かれている。
 そして対する「氷雨ひさめ」は静かな筆致で煌めく銀の線が透明感を引き立てる。
 2体の人形は、瑞樹と神楽のようにも見えた。
 きっと黒い方が瑞樹だろう。
 氷雨は晴天の陽射しを全身に通し、宝石のようにきらめいていた。
 黒曜は熱をたっぷりと含んだ光を受け止め、身体の中に取り込んでいく。
 早くも汗をかき始めていた。
 神楽のような経験の浅いデザイナーに対して、正面から向き合えない自分。
 競争意識ばかりを持ってしまうのは、自信のなさの表れ。
 分かってはいるが、内にこもるエネルギーが、黒いほむらとなってゆらぎ立ち上る。
「私、ちょっと気分が悪くなったからコーヒーでも飲んで来るわ」
 ずっと見守っている必要はない。
 氷がただ溶けていくだけだ。
 どうしても、自分の行く末に思いが至る。
 きっと才能がないのだろう。
 その時、スラリとした男が傘を差して歩いてきた。
 黒いジャケットに黒いパンツ。
 そして黒のベレー帽は瑞樹とおそろいだった。
「どこへ行くんだ。
 これから奇跡が起きるというのに ───」
 何も言わずにすれ違い、通り過ぎていった彼女の脳に、ある言葉の残響が染み渡る。
「奇跡 ───」
 男は顔だけ横を向けて、天井を仰ぎながら言った。
「宇宙から、奇跡の漆黒しっこくが ───」
 瑞樹は口角を上げた。
「焔立つ氷に奇跡が ───」
 そう、その男は超えられない壁、文月 優斗だった。
「さあ、面白いショーが始まるぞ。
 気分も晴れてくるだろうさ」
 文月が伸ばした左手に、瑞樹の指先が触れた。
「うん」
 2人は手を携えて、神楽の元へと戻って行った。

 デジタルタウンの老舗しにせ百貨店である、セレストのイベントは、それなりに認知されていた。
 駅近くのカフェには、若者がスマホを片手にドリンクを飲みながら談笑している。
「あの氷、どれくらい持つかな」
「5、6時間が良いところだって書いてあるわよ」
 ノートパソコンを広げて、キーを叩いていた上田 拓也うえだ たくやは、BGMを楽しむかのように若者たちの喧騒を、聞くとはなしに聞いていた。
「セレストの氷、話題になっているな ───」
 気に留めてはいたが、ローカルニュースだと軽視していた。
 周囲を見渡すと、スマホに釘付けになっている者が多いことに気づいた。
 ライブ中継が始まったはずである。
 SNSを確認すると、氷が溶け始めたとか、水が溜まり始めたとか逐一大量の書き込みが上がっていた。
「ねえ、日傘持ってきた」
「ないよ、男が持つ物じゃないし」
「私の、一本貸してあげるから行ってみようよ」
 隣りの男女が立ち上がって、急いで支度したくをし始めた。
 他の席でも、傘を手に出て行く者がいる。
 上田はもう一度視線を上げ、外の強烈な陽射しに目を細めた。
 何かが起こっている。
 街全体を騒がせる、何かが。
 直観した彼は、残りのアイスコーヒーを喉に流し込み、身支度を整えると外へ出て行った。
 繁華街の中心部にあるセレストの入口には若者たちの姿があった。
 カフェと同じようにスマホを片手に壁に寄りかかったり、何人かで輪になったりして何かを共有しようとしていた。 エスカレーターで人の流れに乗って屋上を目指すと、途中で売り場へと消えていく客が少ない。
 みんな同じところを目指しているようだった。
 広いオープンスペースにすっかり様変わりした屋上には、人垣ができていた。
 そして、誰もが日傘を差して中心の方を向きながら手元のスマホを見ているのだ。
 わあっと、歓声の波が起こり、どよめきに変わる。
 大きなしずくが黒い氷の方で落ちたらしい。
 悲鳴のような奇声を上げる者もいる。
「おいおい、これじゃあ黒曜が持たないぞ」
 隣りの男がつぶやいた。
 人垣を掻き分けて、上田は果敢に騒ぎの中心へと入っていく。
 人の熱気が、じっとりと濡れた肌をさらに汗で湿らせた。
「何だ、あれは ───」
 黒曜の傍らには、黒づくめのスーツ姿の男女が立ち、日傘を氷の方へと差し出していた。
 少しだけ間を空けて日傘を差した人々が取り囲む。
 中には普通の雨傘や透明なビニール傘の者もいるが、誰もが傘を持ち寄って氷の様子を見守っていた。

 氷は周囲の熱を奪いながら、自らが崩壊していく。
 まるで、人間が崩壊、衰退へと向かう無常の傾向に支配されているように。
「限りある命を、守ろうとする営みが心を打つのか ───」
 上田はパソコンに向かい、デパートの屋上で繰り広げられた、奇跡のようなできごとを言葉でまとめようと苦悩していた。
 ライブ中継の瞬間視聴者数は、記録的な数字だった。
 関連したSNSでの盛り上がり。
 氷が大粒の汗をかくたびに、ネットで大量の書き込みがある。
 そして人が大挙して押し寄せ、傘を持ち寄った。
 ため息とともに書いた記事は、夕方のトップニュースにおどり出たのだった。

「お疲れさん」
 汗でぐっしょりな帽子を取ると、髪がべっとりと顔に張り付いた。
「ふふ、ひどい有様ね」
 氷の冷気で多少涼んだとはいえ、直射日光が降り注ぐ屋上は尋常じんじょうではない。
「でも、いい気分よね」
 セレストの青山部長は「こんなに若い人が集まったことは、記憶にないほどだ」と目を丸くしていた。
 当の文月は、口数少なく頷くばかりである。
「ねえ、こうなることは、分かっていたのでしょう」
 なおも瑞樹が問いただす。
 サーキュレーターの前で風に当たりながら、気分が落ち着いてきたのか文月が口を開いた。
「いいや。
 今回は瑞樹にも、セレストにも一本取られたよ」
 小首をかしげて、瑞樹は少し考えこんだ。
「予想以上だったってこと」
「予想以上なんてもんじゃない。
 勉強させてもらったよ。
 俺は、無作為の効果は知っていた。
 だが、人を動かすのは人なのだと教えられた ───」
 視線が瑞樹の方に向けられた。
 その視線を避けるように、窓の外を見ると、
「私は、逃げようとしていたの。
 自信がなくて、仕事と正面から向き合えなかった。
 成功したのは、文月の後押しがあったからだし ───」
 夕日がブラインドから差し込む。
 そろそろ上がろうかと、瑞樹は腰を浮かした。
「陽は落ちるが、明日になればまた昇る。
 同じ一日は二度とこないのだ。
 こんなに惜しい夕日は初めて見るかもしれない ───」
 帰路についた2人は、その夜泥のように眠ったのだった。

この物語はフィクションです


「本日はご来店いただき、まことにありがとうございます」
 ショーウインドウでは初夏の爽やかなアズールブルーに彩られた背景に、マネキンが躍動的なポーズを取る。
 正面玄関のガラスドアにステンレスの肉厚の湧くが煌めく。
 買い物客の笑い声とともに、中へと吸い込まれていく流れが止むことはない。
 夫人物の小物やネックレスのガラスケースの向こうから、きちんと両手を揃えて頭を下げる女性店員には気品があった。
 入口の特設コーナーに、夏用の帽子が並び季節感を出している。
 客の群れはエスカレーターに向けてほとんどが流れ、一部エレベーターの方へと向かう。
 人の流れも滞りがない。
 キョロキョロと辺りを見回しながら、瑞樹みずき るりはスマホに何かを打ち込んでいる。
 黑い帽子を目深まぶかかぶり、上下共に黒いフォーマルな印象のシャツとパンツ。
 化粧品売り場では、カウンターにあるおびただしい量のテスターが並び客がカウンターの前の椅子に腰かけて店員と談笑している。
 巨大なポスターが並び、強い照明で金属やガラスの光沢感を際立たせる演出をする。
 百貨店は、長年つちかったノウハウがある。
 注意深く観察していれば、洗練されたデザインと販売促進のコツを見いだすことができた。
 ハンドバッグが並んだ一角に、白髪交じりの男が立っている。
 落ち着いたたたずまいだが、周囲の様子を伺いながら店員に指示を出しているようだ。
 瑞樹は革製のショルダーバッグから名刺を取り出して、男に差し出した。
「コンサルタントの瑞樹さんですね。
 お噂は近隣の商店街に広がっていますよ」
 口角を上げて目尻を下げ、満面の笑みを作った男は青山 翔太あおやま しょうたと名乗り、販売促進部長と名刺に書かれていた。
 もう一人、40歳くらいの女性が着いてきた。
 こちらは秋山 美咲あきやま みさきと言い、同じく販売促進部の社員だった。
 化粧とスーツの着こなしは、瑞樹が引け目を感じるほど身ぎれいに整えている。
 青山部長は屈託なく笑い、気さくな話し方をするが、立ち居振る舞いに一分のすきもない。
 まだ29歳の瑞樹は、早くも雰囲気に飲まれかけていた。

 手狭なオフィスの机には、うず高く積まれた本が並び、窓からの光とデスクライトで照らされた男が眉間にしわを寄せて、次々にページをめくる。
「戻りました」
 少々疲れた声を出した瑞樹が、隣りのデスクにバッグを置くと、椅子にストンと腰を落とした。
「ああ、で、どんな話だった」
 本から目を離さずに文月 優斗ふづき ゆうとが聞いた。
「どうもこうも、百貨店は完成されたデザインで固められていて、私が指導することなんて、ないと思うのだけど ───」
 小さくため息を吐いて、横目で文月の様子をうかがっていたが、やれやれといった風に肩をすくめた。
「君よりも年配の販売促進部に指導するのだから、それなりの準備がいるはずだ」
「文月さん、もう何か仕込んでいるのでしょう。
 黒ずくめの服装で行ったのは、何のためなんです」
 少々苛立いらだった声を出した。
 ようやく本から視線を上げて、瑞樹の方に向き直った彼の顔には、鋭い眼差しと引き結んだ口元が緊張感をかもし出している。
「俺は、今回最初から勘違いをしていた。
 百貨店は地域のリソースとして、優れた存在だった。
 小手先の技術はまったく通用しないだろうな」
 息を飲んだ瑞樹の顔にも、緊張が移ったようだった。
 クライアントの方が、用意周到に依頼内容を精査して資料を大量に示してきた。
 本来こちらの仕事だが、先手を取られてすでに負けた気分になって帰ったのだった。
「SDGsがキーワードだろう」
 ズバリと言い当てられて、次の言葉が出なかった。
 今回の依頼主である、セレスト・パレ・ミナミ百貨店は、埼玉県南区デジタルタウンの中心に位置する。
 人の流れが良い繁華街にあり、表向きはにぎわっていた。
 そして、内陸部のため夏の猛暑でも有名である。
 屋上でビアガーデンを開いていたが、最近は客足が減ってやめていた。
 ところどころにほころびがあるはずだが、それを補って余りあるほどのきらめく演出と賑わいがあった。
 瑞樹はもう一つため息をついて、ワープロを打ち始めた。


 セレスト百貨店の前には、スレートの歩道が観光地へと伸びている。
 反対側には駅があり、近づくほどに人混みがしていく。
 商店街をざっと見たところ飲食店や格安を武器にしたチェーン店が多く、専門店が少ない。
 いくつか看板や店の外装を写真に収め、スケッチをしてから一息つくように、セレストのベンチに腰かけた。
 文月から送られてきたデータを、スマホで開いて見ていた女は20代半ばだろうか。
 そこへ瑞樹が額の汗をハンカチで慎重に拭いながらやってきた。
神楽 椿かぐら つばきさん ───」
 呼ばれて弾かれたように立ち上がると、スマホをビジネスバッグに放り込んだ。
 2人とも文月の指示で黒いフォーマルで引き締まったいで立ちに、ベレー帽を目深に被っていた。
 足元から頭まで、視線でゆっくりとなぞる瑞樹は、またため息をつく。
「若い人が着るとフォーマルもいいなって思いますね」
「文月さんに考えがあってのことだと思います。
 でも、なぜ全身黒なのでしょう」
 瑞樹の方が聞きたいくらいだが、年下のデザイナーに聞かれると同調もできなかった。
 神楽は美大を出て数年しかたっていない、駆け出しのデザイナーで今回の案件のパートナーとして、他の事務所から文月が指名したのだった。
「きっと、今回の戦略のかなめになっていると思います。
 恐らくターゲットがビジネスマンなのでは ───」
 自分の口から出た言葉に、瑞樹はいかづちに打たれた。
 目を見開いて、口を開けたまま脳に広がる世界をセレストの人混みに重ねた。
 そうだ、よく見てみれば休日にカジュアルな服装をしているのは当たり前だった。
 子ども連れが少なくて、同年代の同性、お年寄りと中年、そして独りで来る顧客が多い。
 百貨店と言えば子ども向けのイベントを開いて親をるものだと思い込んでいた。
「リサーチの第一段階は、入口に立って観察することです」
 指し示した方を見て、神楽がうなった。
「お客さんが、たくさん来ていて経営に困っている感じはしませんね ───」
「想像してください。
 この方たちが、普段どんな暮らしをしているかを」
 身を乗り出して、眺めていた神楽は、困ったように肩をすくめて見せた。
「リサーチって、難しいですね」

 事務所へ戻った2人は、写真やリサーチしたデータを入力して一息ついた。
「それにしても、コンサルを専門にされてる方の分析力はすごいです。
 私はまだまだで ───」
 神楽は瑞樹の4つ下だが、童顔で高校生のようなあどけなさがあった。
 ブラインドの隙間すきまから夕日が規則的な筋を落とし、空気が少しひんやりとして来ていた。
 自分より経験が浅いデザイナーと共に行動することで、瑞樹の脳裏にあった もやもやが晴れつつあった。
 隣りにいなくても、てのひらで転がすように思考のあやを解きほぐしていく。
 同じ土俵で戦い続け、負け続けている辛さに飲まれかけていた自分の心情を理解して、絶妙なパートナーを選んでくれた。
 だが、分かっているからこそ従えない。
 自分の意地を通したい気持ちが、背後で陽炎かげろうのように黒い炎となって ゆらめくのを感じた。
「それで、SDGsに関連したイベントを企画して欲しい、というのが今回のメインの仕事ですよね」
「率直に、どんなイメージ持った」
 瑞樹は鋭い視線を向けた。
「2030年を目標に、持続可能な社会を作る良い行いリストですか」
「ちょっと違うわ。
 将来の世代を意識することによって、企業の利益を産みだす取り組みと言った方が今回の案件には合うんじゃないかしら」
 頬杖ほおづえを突いた神楽の眉間みけん縦皺たてじわが刻まれる。
 2人とも、しばらく唸ってはパソコンで何かを調べていた。
 ふと、文月の机に視線をやると、書置きがあった。
「今日は直帰します。
 明日、別の件でセレストへ行くので、進捗しんちょく報告を一緒にしてください。 文月」
 今日の明日で報告するのか、とため息をついた所で神楽が立ち上がった。
「リサイクル商品を提案するとか、お客さんが増えるようなクーポンとかセールとか作りましょうか」
 違和感を隠せない瑞樹の表情に、神楽も少しひるんだが決然とした覚悟を眼差しに秘めていた。
「そうね、まずは具体的な提案が必要でしょうね」
 曖昧あいまいな返事をして、残りの仕事は各自家に持ち帰ることにした。

 翌日、文月も黒いジャケットに黒スラックス、黒シャツでカンカン帽といういで立ちである。
 3人がセレストのロビーで手持無沙汰に待っていると、買い物客が好奇の目を向けてきた。
「何かのコスプレだと思われてるんじゃないかしら ───」
「もう、なんでこのファッションなんですか」
 苛々を爆発させた瑞樹は、ついに文月に詰め寄った。
「君も、大体理解していると思うのだけどなあ ───」
 あさっての方向を見ながら、手のひらを返して大袈裟おおげさに肩をすくめたポーズが、妙に似合っていて次の言葉が出なかった。
「まあまあ、楽しんでいきましょうよ」
 神楽は足を組んで腰に手をやり、床に視線をやって不可解なポーズを取る。
 まるで3体のマネキンが身をよじっているように、近付きがたいムードをかもし出していた。
「ああ、文月さん。
 瑞樹さんも、お世話になります」
 先日の青山部長が奥へと促した。
 通用口を入り、会議室へ入ると文月が切り出した。
「セレスト様の成長戦略を考えてきました。
 その前に、瑞樹から報告があります」
 目くばせを受けて、バッグからタブレットを取り出した瑞樹は、テーブルの端に置いて話し始めた。
「名付けて『氷のメッセージ ~ 人影が語り掛ける未来 ~ 』です。
 氷屋さんの低温でじっくり作った純氷じゅんぴょうを人型に並べます。
 もう一つは黒い紙の上で同じように人型を作るのです。
 人間が生きていくためには、氷が自然な状況に保たれなくてはならない。
 つまり、地球温暖化に対するメッセージが込められているのです
 いかがですか、この企画で注目度爆上がりですよ」
 言い切った瑞樹は、糸が切れた操り人形のように椅子にストンと落ちた。
 青山部長は、ポカンと口を開けたまま液晶画面を見つめている。
 神楽は、不意打ちでも食らったように目を見開き、瑞樹の横顔を凝視したままである。
 あごこぶしを当てたまま、瞑目めいもくしていた文月は静かに目を開けた。
 瑞樹が唾を飲み込む音が、神楽の鼓膜を揺らした。
「これで、大丈夫ですか」
 おずおずと青山が声を絞り出す。
 机に視線を落とし、また瞑目した文月はコクリとうなづいた。

 イベントの打ち合わせのために、セレストの屋上へやってきた瑞樹はだだっ広い空間を横切ってフェンス際までやってきた。
 後について、青山部長と神楽が周囲を値踏みするように見回しながら歩く。
「け、結構広いのですね ───」
 数年前まで、バブル期を思わせるような屋上遊園地を営業していた場所は、跡形もなく片付けられて、コンクリートを空色に塗装した床面があるのみだった。
 中央に白い台を2つ設置して、同じ氷人形を1つい設置する。
 撮影する方向や、コンテンツの配信方法を検討して準備に取り掛かる。
 まずは氷制作ドキュメンタリーとして、天然の氷を切り出しおがくずにくるんで保存するところ、それをつなぎ合わせて彫刻する映像が制作された。
 これは「予告編」として動画配信サイトから放送された。
 同時にSNSでも写真とエッセイがつづられた。
 神楽のインフィード広告によって、瑞樹のストーリーが映像化され、期間を区切って氷の出来栄えを追いかけていく。
 そしてイベント当日を迎えた。
「瑞樹さん、本当に大丈夫でしょうか。
 私、足が震えてます」
 黒一色の神楽は、腰が抜けたように椅子に座ったきり立てなくなった。
「もう、文月もあなたも信用してないのでしょう。
 ここまで来たら、デンと構えなさいよ」
 少々苛立った声でたしなめたとき、2つの木箱が到着した。
 等身大のアイスボックスなどないので、梱包材こんぽうざいの専門業者に特注で作らせたものだった。
 改めて見ると、立派な箱に自分の思い付きが塊になって収まっていることが滑稽こっけいにさえ思えた。
「やっぱり、この日がきちゃったのね」
 ボソリとつぶやいた瑞樹は、箱に近づくと封を解いた。
 あっという間に梱包材が取り除かれ、氷が姿を現した。
「MRIとか、何千万もする医療機器を運ぶ時の梱包と同じなんだってさ ───」
 あまりのスケールに面食らうばかりの神楽には、うわごとのように頼りなく聞こえた。
 片方には黒い紙が半分貼り付けられていた。
 誰も声を出さず、淡々たんたんとスタッフが設置する模様もライブ配信された。
 最早もはや、現実味のない光景がスマホの画面にも映し出されていたのだった。

 黑い氷人形の台座に「黒曜こくよう」と名前が大きな書道文字でダイナミックに書かれている。
 そして対する「氷雨ひさめ」は静かな筆致で煌めく銀の線が透明感を引き立てる。
 2体の人形は、瑞樹と神楽のようにも見えた。
 きっと黒い方が瑞樹だろう。
 氷雨は晴天の陽射しを全身に通し、宝石のようにきらめいていた。
 黒曜は熱をたっぷりと含んだ光を受け止め、身体の中に取り込んでいく。
 早くも汗をかき始めていた。
 神楽のような経験の浅いデザイナーに対して、正面から向き合えない自分。
 競争意識ばかりを持ってしまうのは、自信のなさの表れ。
 分かってはいるが、内にこもるエネルギーが、黒いほむらとなってゆらぎ立ち上る。
「私、ちょっと気分が悪くなったからコーヒーでも飲んで来るわ」
 ずっと見守っている必要はない。
 氷がただ溶けていくだけだ。
 どうしても、自分の行く末に思いが至る。
 きっと才能がないのだろう。
 その時、スラリとした男が傘を差して歩いてきた。
 黒いジャケットに黒いパンツ。
 そして黒のベレー帽は瑞樹とおそろいだった。
「どこへ行くんだ。
 これから奇跡が起きるというのに ───」
 何も言わずにすれ違い、通り過ぎていった彼女の脳に、ある言葉の残響が染み渡る。
「奇跡 ───」
 男は顔だけ横を向けて、天井を仰ぎながら言った。
「宇宙から、奇跡の漆黒しっこくが ───」
 瑞樹は口角を上げた。
「焔立つ氷に奇跡が ───」
 そう、その男は超えられない壁、文月 優斗だった。
「さあ、面白いショーが始まるぞ。
 気分も晴れてくるだろうさ」
 文月が伸ばした左手に、瑞樹の指先が触れた。
「うん」
 2人は手を携えて、神楽の元へと戻って行った。

 デジタルタウンの老舗しにせ百貨店である、セレストのイベントは、それなりに認知されていた。
 駅近くのカフェには、若者がスマホを片手にドリンクを飲みながら談笑している。
「あの氷、どれくらい持つかな」
「5、6時間が良いところだって書いてあるわよ」
 ノートパソコンを広げて、キーを叩いていた上田 拓也うえだ たくやは、BGMを楽しむかのように若者たちの喧騒を、聞くとはなしに聞いていた。
「セレストの氷、話題になっているな ───」
 気に留めてはいたが、ローカルニュースだと軽視していた。
 周囲を見渡すと、スマホに釘付けになっている者が多いことに気づいた。
 ライブ中継が始まったはずである。
 SNSを確認すると、氷が溶け始めたとか、水が溜まり始めたとか逐一大量の書き込みが上がっていた。
「ねえ、日傘持ってきた」
「ないよ、男が持つ物じゃないし」
「私の、一本貸してあげるから行ってみようよ」
 隣りの男女が立ち上がって、急いで支度したくをし始めた。
 他の席でも、傘を手に出て行く者がいる。
 上田はもう一度視線を上げ、外の強烈な陽射しに目を細めた。
 何かが起こっている。
 街全体を騒がせる、何かが。
 直観した彼は、残りのアイスコーヒーを喉に流し込み、身支度を整えると外へ出て行った。
 繁華街の中心部にあるセレストの入口には若者たちの姿があった。
 カフェと同じようにスマホを片手に壁に寄りかかったり、何人かで輪になったりして何かを共有しようとしていた。 エスカレーターで人の流れに乗って屋上を目指すと、途中で売り場へと消えていく客が少ない。
 みんな同じところを目指しているようだった。
 広いオープンスペースにすっかり様変わりした屋上には、人垣ができていた。
 そして、誰もが日傘を差して中心の方を向きながら手元のスマホを見ているのだ。
 わあっと、歓声の波が起こり、どよめきに変わる。
 大きなしずくが黒い氷の方で落ちたらしい。
 悲鳴のような奇声を上げる者もいる。
「おいおい、これじゃあ黒曜が持たないぞ」
 隣りの男がつぶやいた。
 人垣を掻き分けて、上田は果敢に騒ぎの中心へと入っていく。
 人の熱気が、じっとりと濡れた肌をさらに汗で湿らせた。
「何だ、あれは ───」
 黒曜の傍らには、黒づくめのスーツ姿の男女が立ち、日傘を氷の方へと差し出していた。
 少しだけ間を空けて日傘を差した人々が取り囲む。
 中には普通の雨傘や透明なビニール傘の者もいるが、誰もが傘を持ち寄って氷の様子を見守っていた。

 氷は周囲の熱を奪いながら、自らが崩壊していく。
 まるで、人間が崩壊、衰退へと向かう無常の傾向に支配されているように。
「限りある命を、守ろうとする営みが心を打つのか ───」
 上田はパソコンに向かい、デパートの屋上で繰り広げられた、奇跡のようなできごとを言葉でまとめようと苦悩していた。
 ライブ中継の瞬間視聴者数は、記録的な数字だった。
 関連したSNSでの盛り上がり。
 氷が大粒の汗をかくたびに、ネットで大量の書き込みがある。
 そして人が大挙して押し寄せ、傘を持ち寄った。
 ため息とともに書いた記事は、夕方のトップニュースにおどり出たのだった。

「お疲れさん」
 汗でぐっしょりな帽子を取ると、髪がべっとりと顔に張り付いた。
「ふふ、ひどい有様ね」
 氷の冷気で多少涼んだとはいえ、直射日光が降り注ぐ屋上は尋常じんじょうではない。
「でも、いい気分よね」
 セレストの青山部長は「こんなに若い人が集まったことは、記憶にないほどだ」と目を丸くしていた。
 当の文月は、口数少なく頷くばかりである。
「ねえ、こうなることは、分かっていたのでしょう」
 なおも瑞樹が問いただす。
 サーキュレーターの前で風に当たりながら、気分が落ち着いてきたのか文月が口を開いた。
「いいや。
 今回は瑞樹にも、セレストにも一本取られたよ」
 小首をかしげて、瑞樹は少し考えこんだ。
「予想以上だったってこと」
「予想以上なんてもんじゃない。
 勉強させてもらったよ。
 俺は、無作為の効果は知っていた。
 だが、人を動かすのは人なのだと教えられた ───」
 視線が瑞樹の方に向けられた。
 その視線を避けるように、窓の外を見ると、
「私は、逃げようとしていたの。
 自信がなくて、仕事と正面から向き合えなかった。
 成功したのは、文月の後押しがあったからだし ───」
 夕日がブラインドから差し込む。
 そろそろ上がろうかと、瑞樹は腰を浮かした。
「陽は落ちるが、明日になればまた昇る。
 同じ一日は二度とこないのだ。
 こんなに惜しい夕日は初めて見るかもしれない ───」
 帰路についた2人は、その夜泥のように眠ったのだった。

この物語はフィクションです


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越庭 風姿 【 人は悩む。人は得る。創作で。】
「利益」をもたらすコンテンツは、すぐに廃れます。 不況、インフレ、円安などの経済不安から、短期的な利益を求める風潮があっても、真実は変わりません。 人の心を動かすのは「物語」以外にありません。 心を打つ物語を発信する。 時代が求めるのは、イノベーティブなブレークスルーです。