トイレットペーパー・生理用品の買い占め問題から考える
近所のドラッグストアに行ったらトイレットペーパーが売り切れていました。生理用品も売り切れていました。
なんというか、この、顔の見えない共同体の無意識のようなものがドラッグストアの空棚に現れたような気がしました。
まあ、買い占めた人も一気に使えるもんではないから、ただ溜め込んでいるんでしょうね。彼らは「本当にペーパーや生理用品がなくて困っている」人への想像力がないのだろうと思います。他者性の不在と言っていいかと思います。
一応、事実確認しておくと、コロナウイルスが流行って、そのデマで、トイレットペーパーや生理用品がなくなるかもしれない!という不安が広がり、買い占めが始まったという事です。
それで自分などが思ったのは、買い占めに走った人はある意味で「利口」で「賢い」という事です。彼らの自己正当化はどのように行われるかと言えば、「確かにデマかもしれないけど、デマだと信じた他の人が買い占めれば困るから今のうちに買っておけ」というものではないかと思います。こういう状況は面白いと言えば面白いですね。
人間というのはつくづく面白い生き物だと思うのですが、実際、買い占めた人の大半は自分はデマに騙されたとは思っていないんじゃないかと思います。「デマだとしても不足したら困るから買う」という心理なのではないか。そうだとしたら、彼らは騙されていないのに騙されたの同じ行動をしているという事です。
人間というのはどんな状況、どんな行為でも自己を正当化できる生き物だと思います。ゲーテは「人間は理性によって動物よりも動物らしくなった」とメフィストフェレスに語らせていますが、買い占めた人は、先の事まで読んでそういう行動に走った。動物のように即物的かつ利己的なだけの生物ならそこまでの行為には至れないでしょうから、ここでは人間の頭脳的賢さが、動物以上の利己的行動を取らせた事になると思います。
また、こういう行動は、現在の社会が推奨する「ほんわりあったか優しい雰囲気」と全く矛盾しません。この問題を今の作家がほとんど考えていないのは私には疑問なわけですが…太宰治なんかは鋭敏だったので「家庭の幸福は諸悪の基」と言い切りました。トイレットペーパーや生理用品の買い占めは「家族の為」「子供の為」「親の為」という論理と全く背反しない。それどころか、そう正当化しつつそれを行った人もたくさんいるのではないかと思います。
このトイレットペーパーや生理用品の不足という問題も、おそらくすぐに忘れ去られ「そんな事もあったな」という話になるだろうか、今、掘り下げて文章として定式化しておくのは無駄ではないと考えています。
もう少し、この問題を巨視的に考えてみましょう。今は、この買い占めについてはとりあえず非難される対象になっています。「買い占めもやむを得ないよね」というよりは「買い占めはよくない」という風潮です。
この状態では一応、社会の倫理は機能していると言えます。なぜまだ機能しているかと言うと、買い占めて得する人よりも困る人の方が多いからだと思います。
つまるところ、ここで起こっているのはそれぞれの利害の衝突なわけですが、少数の人間の買い占めが、本当に困る人を生み出すとわかっているから、まだ今の所は買い占めは非難されるわけです。
しかし、結局、この社会における倫理というのは利害・損得しかなくなっているわけです。全体の損得の問題が絡むので、個別的な勝手な行為は非難される状況にある。今はそれでいいと思います。ただ、この先は果たしてどうなるのか、と思います。
例えば、日本国民という集団全体に取ってプラスであるが、自分達とは関係のない一億人とか十億人とか、何人でもいいですが、そういう人達が死ななければならないとしたら…我々はどういう判断を取るか。問題は一周めぐって、トイレットペーパーや生理用品を買い占める人達に自分達はならないか。自分達だけが得をすれば他の人が死んでもいいのだ、という風になった時、一体何がそれに歯止めをかけるのか。
私は歯止めをかけるものは、最終的には、信仰とか、宗教のようなものしかないと踏んでいます。今の人は宗教とか信仰とかいう言葉を嫌うでしょう。私も現行の宗教の話をしているわけではないので、理念としての信仰というか、哲学的に考えられた信仰・宗教・信念とでもいうものを想定しているわけですが、最終的にはそれしか答えにはならないだろうと確信しています。経済学や損得勘定の話をいくらしても無駄でしょう。結局人間にとって大切なものは何かと言えばそれは理屈を超えたものだという事になると思います。
理屈から言えばペーパーの買い占めをした人はある意味で正しいわけです。「実際に」ペーパーはドラッグストアの棚にないのだから。なくなる前に買った人は正しいと、彼らの立場に立てば言える。この立場を超えるものは、今のマスコミや自己啓発本などの中にはないと思います。それを超えさせるのはおそらく現代人には不可解に見える超越的な信仰という事になると思っています。簡単に言えば自分の死を受け入れるという事です。自分自身の身におきる不合理、損害を「喜ぶ」という事。答えというのはそこまで行かなければ、嘘っぱちになると私は思っています。