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無償の愛

先日、「恋愛マニュアル」マガジンのコーナーにアップした『脱!ちょいワルおやじ宣言』というタイトルのコラムで、

「ある程度親密になったヒトからは、男女問わず…
たとえ20歳30歳年下でも、なにかを得たいという強い願望が自分にはある」

…みたいなことを書きましたが、少々言葉足らずだったようなので、今日はその補足をしておきます。

かなり昔の話になるんですけど…ぼくの知人である、「モテ男」の名を欲しいままとする某アパレル会社社長と会食したとき、

「なんでアナタはそんなにモテるんですか?」

…と、あまりに漠然とした(下手すりゃ禅問答にも
なりかねない)、プロのライターとしては果てしなく0点に近いダメな質問を投げかけてみたら…

「無償の愛の精神です」

…と即答され、大いなる天啓を受けました。
これって、裏を返せば

「見返りを求めすぎるから
アンタはモテないんですよ」

…ってことなんですよね。

「とっておきの高級フレンチでフルコースをご馳走してあげたのに…
とっとと終電で帰っちまうとは何事か〜!」

「キャバ嬢のE香ちゃんにはすでに何十万円もお店で突っ込んでいるのに、いつまでたっても店外デートに応じてくれない…」

…みたいな感じでしょうか? もう少々身近な事例を挙げてみましょう。

ぼくもスマホデビューしたばかりのころは、意中の女性からのLINEの文体や、文章量の長短、スタンプ・絵文字・顔文字の比率、届くタイミングなどに一喜一憂しておりました。でも、前出の某アパレル社長から啓示をいただいて以来、相手から

「りょ(ーかい)」
「だよねー」
「うん」

…といった、いかにも手抜きな五文字以内のそっけない返信や、デート後に「ありがとう」だけの社交辞令的なお礼文が、丸一日後に届いても──極論、お礼一言すら無くスルーされたとしても、あまり気にしないように努めるよう心がけてきました。
また、気にしないように努め続けていると、本当にあまり気にならなくなってきました。
ああ…こーいうヒトもいるよな…と。

そう。男女問わず、意中の彼女や彼からのLINEの返信に敏感な反応を示す傾向の強い人たちは、
とどのつまりが

「他人に期待しすぎ」

…なんです。申すまでもなく、LINEとは

「ビジュアル化された言葉のキャッチボール」

…であり、当然のこと相手がいなければ成立はしません。しかも、キャッチボールの相手には、球の速いヒトもいるし、山なりも球しか投げられないヒトもいるし、投げた球をすぐ後ろにそらすヒトもいるし、投げるごとに球をコネコネ持ち替えなかなか投げてこないヒトもいる…。

「胸元にズバッとくるストライクを投げてくれる」

…ケースのほうが、むしろ稀だと言えましょう。

せっかくオレが(アタシが)精一杯の想いを込め、
考えに考え抜いた渾身のLINEを送ったのに、返信は

「きのうは
どうもでした
またさそってね〜」

…だけかいっ! そんな風に毒づきたくなる気持ちは十分に理解できます。しかし、いくら相手が自分にそれなりの好意を抱いていようとも、渾身のLOVE LINEに対し、同程度の体裁と熱量のLINEを返してくれるとはかぎらない──それは相手の性格と生活環境から培われてきた、条件反射に近い“癖”のようなものゆえ、それを今さら

「変えてくれ!」

…とせがむ──「期待」するのは、傲慢以外の何物のでもないのです。

そもそも恋愛において

「相手の気持ちをどうにかしたい」

…と望むこと自体、

「相手に期待しすぎ、依存しすぎ」

…なのではないでしょうか。

「人のメンタルを操作する」

…という行為は、ある意味「洗脳」と一緒──相手に過度な期待を寄せず、とりあえずは

「自分のやれることからきちんとやる」

…という姿勢を持つことが大切だと、
ぼくは思います。

冒頭でぼくは「ある程度親密になったヒトからは、なにかを得たいという強い願望がある」と言いましたが、その「なにか」とは「終電を逃してお泊まりしてもらうこと」でも「店外デート」でもありません。
お互いの貴重な時間を共有するかぎりは、なんでもいいから相手からとにかく「学び」を得たい──
ただそれだけなんです。

そして、その「学び」とは…もちろん「オススメのコンビニスィーツ」であっても「自撮りをもっと盛れる写真アプリ」であっても、全然かまわないのです。



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