コミュニケーション考察
僕の母はとにかく話が長い。
30年以上共に生活してきているからあまり意識したことはなかったのだが、この間、両親と3人で外食した時にふと感じたことがある。
「コミュニケーションが気持ち悪い」
これまで我慢してきたわけではない。これがうちの当たり前だったから。ただ感じていた違和感の理由をようやく言葉にできたという感覚である。
それを感じたのは母がトイレに席を外した時、父親とふたりきりになった時のこと。
淀みなく流れるインタラクティブなコミュニケーションを経験した後、母が戻ってきた。
聞いたことのある話を延々と喋っている母と、それを黙って聞き10分の1の時間で「要するに」と教えてくれる通訳の父。
僕はというとひとり取り残され、急にコミュニケーションに参加できなくなった。
「ちょちょちょっといい!俺も会話に入りたいんだけど」
「え?ずっと喋ってるじゃん?」
「いゃ、そうじゃなくてなんかコミュニケーションのテンポが気持ち悪い感じがするの」
「どういうこと?」
その1 コミュニケーションのテンポに関する考察
まず、家族や友人とするコミュニケーションは前提として嬉しく、楽しいものである。
様々な話題についてお互いがやり取りすることで、つながりを感じ、居場所を感じ、そして安心感を感じるものだ。
「ウケるんだけど!w」
中学生が言うウケるは、「マジでうちのこと認めてくれて、つながってる感じするし、なんか楽しい時間共有できるの嬉しいんだけど」である。
そのため、コミュニケーションが上手くいかないとそれらが失われる感じがして不安になる。
会話の割合がどちらかに寄りすぎていたり、変に互いを意識してぎこちなさが生まれたり。
つまりテンポの悪さは不安なのだ。
相手に認められていないのではないか、つながっていないのではないか、暗にそう感じさせる怖さがある。
だからテキストコミュニケーションにおいてもテンポが大事で、返信の遅さは不安になる。
既読スルーは寝れなくなる。
僕が感じたテンポの悪さからくる気持ち悪さは、実の母親に相手にされていないかもしれない怖さや楽しい時間を共有できない退屈さからくる不安なのである。
母親にその気はない。
家族だから、大丈夫であろうと思っている。実際、僕も本気で不安になってなどいない。
ただ止められない。
先月、ジュビロ対マリノスを観に行った際に、マリノスにひたすらボールを持たれるジュビロを見て母は言う。
「何もできないね」
そう何もできないのである。
そして酒が入っている。
その2 コミュニケーションの長さに関する考察
「お母さん会話のキャッチボールできないねって言われたことはある?」
「昔言われたことがあったような気もするけど覚えてない…」
「別にこれまでキャッチボールできないなと感じたことはなかったんだけど…」
「良かった」
「できてない可能性あるわ」
「ズコッ」
「投げたボールが全然返ってこない」
「お父さんは感じない?」
「いゃもう麻痺してる」
人は習慣の生き物である。
世間一般に会話のキャッチボールができないというと、投げかけに対して明後日の返答が返ってくるイメージがある。
そういう意味ではうちの母はまともである。質問に対してどんな時も正対しており、明るさ、人当たりの良さ、人並みの教養もある。
ただ、投げたボールがいっこうに返ってこない。キャッチボール中に僕を放って韓国ドラマを見てる可能性すらある。
テンポの話とも似るが、キャッチボールはある程度同じ長さで行われるから楽しさが約束されており、待ち時間が長いと肩が冷える。
山田家の1日の会話を文字起こしするとポゼッション率は母60%、父、僕が20%ずつになるであろうとAIが解析している。
それぐらい母強しなのだが、うちはこれで平穏が保たれているので僕らはこれまで通り麻痺しているのが家族が仲良くいる秘訣なのだろう。
しかし、話の長さは暗に力関係にも影響を及ぼす可能性がある。
コミュニケーションにおいて聴くということが重要なファクターであることは言わずもがな、聴くことに徹しているといつの間にかなぜかマウントを取られることがある。
話すが上で、聴くが下ということはないのに、いつの間にかコミュニケーションを円滑に進めようと聴くことに徹したやさしい人が、話が短いというだけで話が長い側の人に優位性をもたれ、いつの間にか、その後の生活でも関係がイーブンでなくなる案件は方々で見られる。
学校の先生は往々にしてそうである。
関係性から話を聴いてもらっているだけなのに、つい喋りすぎる。喋りすぎるだけならまだしも、偉そうである。子ども達の生き方に何か影響を与えてやろうと偉そうである。
それを真似して子どもは知らぬ間に関係性の優劣を話の長さに見つけるようになる。散々自分の言いたいことを喋って、すっきりして、相手が話をしている時ですら、次は何を喋ろうと上の空。どちらかに話の長さが寄ったら、その関係性は破綻に向かっていると考えていいかもしれない。
コミュニケーションが上手な人は、言葉の上手さや論の正しさだけではなく、年齢や立場関係なくちゃんと聴いてくれる。そんな人の言葉だから聴きたいと思うのだろう。
ちなみにうちの母の独演会はオチがない。今じゃSiriの方が話が上手い。
まず最初にAIに仕事を奪われる人類である。
その3 コミュニケーションに参加している実感の考察
酒に酔った両親を乗せ家に帰る。
ここでも「コミュニケーションとは?」を3人で議論し続けるのだが、おもしろい気付きがあったので紹介したい。
店の中では空間の広さと母親の躊躇いから聞こえたはずの僕のうなずきは、車内という音の抜けない閉ざされた空間と人の目のなさから聞こえなくなった。
すると、聞こえなくなったうなずきに怖くなった。
「僕は、コミュニケーションに参加しているのだろうか?」
これまでコミュニケーションへの参加は、何を言うかによって決まるものだと感じていたのだが、人は小さなうなずきであっても自分の声を聴いてコミュニケーションに参加していることを知るのだと感じたのだ。
かっこよく言えば存在の証明を自分の声に依存する。
手話であれば自分の動きを目にして知るのだろうか。
自分の声が声量にかき消された時、つながりは消え、独りを感じる。大袈裟かもしれないが、大いに言えるのではないだろうか。
ゆえに相手にコミュニケーションの主導権を握られ、いつまで経っても喋れず自分の声が聴こえない時、人は不安を感じるのだろう。
だからだ。
自分が自分であることが、時折わからなくなるから、
人は喋りたくて、書きたくて、聴いてほしいのだ。
僕だってそうだ。
今日はちょっと母に抗ってみようと思う。
ちなみにもっと喋る弟がいる。