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好きなことを仕事にするということ
好きなものに囲まれて生きていきたいと考えていたのだけれど、僕の''好き''はさほど純度が高くなく、相対的に決まっているものが多い気がするので、好きなものに囲まれたら、結果的に好きなものと嫌いなものが混在しそうだなと思う。
つまりは、嫌いなものに照らされて好きを探すとすると、好きの中に自ら嫌いを作り出し、好きだったものが嫌いになってしまうのではないかと思うと、好きも嫌いもバランスよく置いてある生活が良さそうである。
…なんて一端の哲学じみたことをしたいがために、嘘ついてそれらしさを優先した仮説を立ててみたものの、「ってそんなわけあるかい、お前の好きは両立するやろ」と早々にノリツッコミを入れる。
おそらく好きなものに囲まれた生活は好き、嫌いのアンビバレンスではなく、多くの場合、好きともっと好きに囲まれた生活であることが多いのだと思う。
好きなことよりも、ずっと嫌いなことの方が多い義務教育の反動か、子ども達の中には「好きなことを仕事にしたい」という勢がいる。僕もその一人で、職業選択は好きなことを掛け合わせたら、保健体育の先生になった。好きなことに囲まれた生活は10年経ってもなおとても良い。
子ども達の中には「好きなことを仕事にすると嫌いになりそうだからしない」勢も一定数いる。マイノリティへのかっこよさを見た思春期特有の逆張りであれば、自分自身をごまかし続けてしんどい道に進んでしまう前に大人の言葉で軌道修正してあげればいいが、自分の好きが能力的に難しくて仕事にならないという場合は、好きなことの種類をもっと広げるきっかけを与えてあげるのも大人の仕事である。するとだいたいみんな好きの幅を広げて、そこに向かっていく。
そういう意味で義務教育のキャリア教育においては、一旦好きなことを軸に職業を選択する考え方の重要性を伝えておく必要がある。往々にして好きや興味を軸にした職業選択が上手くいくケースは多い。
しかし、実際に好きなことが仕事になったことで嫌いになったという人もいる。
スポーツ選手なんかに見られるように、対象と適切な距離感でいたから楽しかったものが、仕事になった途端に退路を断たれ、あらゆるプレッシャーに晒されて、考えることも嫌になるというケースである。スポーツ選手などの特異な職業は、僕らが容易に想像できない重圧がかかるパターンがあり、その負荷の大きさは好きを嫌いにさせてしまうほどの力があるのかもしれない。
ただ、好きが嫌いになるには相当な負荷が掛かっている場合であり、子どもがドキュメントか何かから形だけ真似して「好きなことを仕事にすると嫌いになるらしいからしない」と本意とは違う道を歩かなければならないのであれば寂し過ぎるので、好きなことを仕事にしている大人は是非その素晴らしさを伝えてほしい。
半年間企業に出向し、自分で選んだわけではない仕事をした際に感じたことは誰かを救うことがあるかもしれない。
どんな仕事も自分が価値を与えられるとわかるとおもしろい。しかし、1日の中にある好きではない時間の割合の多さはその日をとても長く感じさせ、また退屈はいくらお金が積まれてもしんどいということである。そう、自分には夢のような休日があるからと、歯を食い縛るウィークデーはあまりに長いということだ。
好きことを仕事にするということ
好きなことを仕事にすると、きっと嫌いだったら割り切れた憂鬱がいくつもついて回る。上達しないもどかしさに、上手くやる仲間への嫉妬、優秀な年下への焦り、もっともっとある。しかし、その憂鬱と嫌いは違う味がするのに、同じような形をしているからつい嫌いになったと、手を伸ばしてしまう。辞めたい、もきっとそんな憂鬱が嫌いに似るせいである。
だから好きなことを仕事にする時に、そこに必要なのは嫌いになる覚悟ではなく、「好きなことだったらどんな困難も乗り越えられる」とも少し違う、もっと好きになるまでの憂鬱を楽しめる時間なのかもしれない。
好きなことを仕事にするということは、
好きと、もっと好きがあるということである。
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