魔法が解けてしまう前に
何もかも新しいことで溢れていた4月は、その新しさに馴染もうと春らしい無茶な色付きをしていた僕も、今では新しくない慣れた景色の中で、周りが青色だと言うことに、肩の力を抜いてちゃんと青色ですねと言えるだけの夏を迎えようとしている。
子どもに囲まれた当たり前が、当たり前でなくなった時に感じた無力感を人生の縁(ふち)と解釈したけれど、季節柄訪れるそんな一過性の視力の悪さを理由に、止まってしまわなくて本当によかったと振り返る今日までである。
いい時間を過ごしていると、自分のことが好きになる。
また新しい自分がいることを知ることは、自分を好きでいる理由としては十分なものであろう。
去年の7月3日、31歳になったタイミングで詳細な31歳の生き方を日記に書き留めることを無駄だと判断した結果、価値観を揺さぶられるという意味での、人生が変わりそうなそれなりに大きなチャンスに身を置いている。きっと細かく設定した道があれば今ここにはいない。
学術的な言葉で表すなら計画的偶発性理論と言ったところか。キャリアの8割は計画的なものではなく、思いがけない縁や予想もしない出来事によって決定されるというものだ。
あぁ僕の人生も往々にしてそうだった。
今日の浅はかさが決める1年後のこうありたいは、1年後に見返すには失礼なぐらいに低い見積もりであると笑われそうであるため、楽しみにしておくぐらいのスタンスで生きてみるのが自分には似合うと最近知った。
というより掲げた目標をずっと覚えていられるほど一途な人ではない。すぐ影響される、すぐ一目惚れしちゃう、そしてすぐに飽きてしまうこの性をなんとかしたいのが唯一の目標みたいなものか。
企業研修が100日を切った。
いつか学校じゃない世界を見てみたいと思った僕に、たまたま訪れたチャンスの時間。掛け替えのない子どもとの時間を捨ててでも見たかった景色は、今日研修を終えても「十分でした」と報告ができそうである。
ここを離れてしまったらまた普通の日常が戻ってしまう。ここにいたら特別でいられる気がするのだ。
そして、ここにいたらどこまでも伸びていけそうだと感じる時間は、形容するなら''まるで魔法を掛けられたような''である。
おもしろいぐらいに環境が人を変え、出逢った人によってまた人は変わる。慣れない仕事はまた人を変える。学校にいた自分はどんなだっただろうか?思い出すに少し時間がかかるマジックは解けてしまう前に、誰かに分けてしまいたい。
''教員をしてきた経験なんて社会出たらマジで何も使えねぇじゃん''
と感じた初日の無力感は早合点の誤解釈。
丁寧な関係性の構築と心理的安全性の上で自分らしく働くことができるようになると、ちゃんと自分に似合う仕事が降ってきて、ちゃんと教員であることを誇れる強さに気づくのである。
''先生っぽいね''
社内各所で掛けられる声を、丁寧に言語化してくれる人達がいる。
「人の良いところを見つけて、たくさんの言葉の引き出しの中から一番似合うものを選んで伝えられる。やまださんはそんな人」
宝物のような言葉をもらった。
ありがとうございます。僕は昔から人には恵まれる。
研修期間は残り3ヶ月。
長く居続けると慣れも愚痴も出てしまうだろうからちょうどいい。
恵まれた可処分時間をそろそろ無駄にし始めているのと、限りあるから上手に使えるのだと、あったらあったで文句を言い始める自分がいるから、そろそろ会社のために何かを残し始めようか。
頑張ります。頑張りましょう。
今日32歳の誕生日を迎えました。
お父さん、お母さん、ありがとう。
みんなありがとう。