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「先生はいつも欲しい時に欲しい言葉をくれました」

水泳の東海大会の引率が終わり、新幹線に乗って三島に帰っている。全中の標準突破を狙った県大会、惜しくもあと少しでそこに届かなかった彼女は今日大きくベストを更新して全中の標準を切った。大会の規定上、東海で標準を切っても全中には出られないのだけれど、気持ちのこもったレースに会場中から送られた拍手は決して乾いた拍手なんかじゃなかったと思う。

帰ってきた彼女に掛けた言葉は「感動したよ、おめでとう」だったけれど合っていただろうか?

純粋な嬉しさがあったのか、悔しさの残る嬉しさだったのか、グラデーションの強さまではわからない。だから時々、かける言葉を間違えてしまうことがある。良かれと思ってかけた言葉が深く相手を傷つけてしまうことだってある。あちら側はネガティブをそっとしておいて欲しい時にポジティブでひっくり返そうとされる鬱陶しさもある。「その言葉、今じゃないよ先生」そんなタイミングの悪さもきっとある。

ありがちなのは''頑張っているのに頑張ってって言われた問題''。それはYahoo!知恵袋よりも彼のこのnoteで決着をつけよう。これ以上の答えを僕は持っていない。

だから難しいのよ、人の気持ちなんてわからないんだから。黙っていてもわからないし、表に出てたってその場を取り繕うために自分の本当とは違うことで誤魔化したりするんだから、人なんだもの。子どもなんだもの。

これでもうすぐ今年の中体連が終わる。今年もたくさんの悔しい思いをした子ども達に僕らの言葉を伝えなければいけない場面があった。これは答えがないだけにいつも難しい。

望んだゲームをしながら、望んだ結果の得られなかったサッカーの準決勝。泣き崩れる選手達に掛けた言葉は僕が昔同じように掛けられた言葉だった。

意気消沈する月曜日の教室の雰囲気に、朝の会で僕が掛けた言葉はひどく落ち込んだ時に僕を救ってくれた本の一節だった。

だからだ。僕の身体が僕の食べたものでできているように、僕の言葉は僕の経験したことでできていく。僕に悔しさや悲しさが無ければ、何がその時に必要な言葉なのか、何が優しさなのかわかるよしも無いのだ。のどの痛みを経験しないとその日は焼肉じゃないことにも気づかないかもしれないじゃない。だから一緒に悔しかった今年も僕はまたひとつ言葉を磨くことができたんじゃないかと思う。

言葉を磨くというのは何もおしゃれな言い回しができるとか、難しい横文字を得意げに振りかざすことではない。目の前にいる子どもの表情を見て、わからないかもしれないけど必死で思うところを覗いて前を向ける、もしくは背中を押せる言葉を添えてあげることだ。響くっていうのはその時にある穴と同じ形だからハマるのだ。

去年の卒業式に子どもがくれた手紙にはこんなことが書かれていた。「先生はいつも欲しい時に欲しい言葉をくれました」言葉を生業とする仕事をしている僕からしたら何よりも嬉しい言葉だった。

言葉を上手に選べる人でありたいものです。











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