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「いい経験をした」という呪い

「まただ、また負けた。心ぞうがはりさけそうなぐらいくやしい」

小学生の頃、作文で賞を受賞した時の書き出しは確かこんな感じで、悔しさから再起を誓った小学生の作文が大人に評価をされた。確かマラソン大会の後に書いたものだっただろうか。

今回ばかりは自信があった。入学からずっと一緒にサッカーをしている子ども達の見せるゲームは、公立の中体連にしてはよく整理されていて、継続して取り組んできた丁寧なB-upに加え、長いボールも蹴れるようになり、クロスの整理までできたチームには上手さに加え、少し強さの兆しも見え始めた。

それでもまだ泥濘んだグラウンドと走らないボールとオーガナイズなきカオスによって起こされる事故に打ち勝てるだけの力はなく、自分たちの土俵でサッカーできない時に強いられるサッカーに「まだまだだよ」と力の不足を突き付けられる。

「まただ、また負けた。心臓が張り裂けそうなぐらい悔しい」

大人になって使える言葉が増えてもなお最初に込み上げる感情はあの時と同じで、相変わらずの負けず嫌いはより一層曇り空を淀んで見せる。

こんな仕事をしているから、子どもが悔しい思いを経験するたびにハンカチの代わりに言葉を送り、届いたり届かなかったりして、届いたものをまた涙が出た時のために丁寧にポケットに忍ばせている。

大人は子どもの悔しい顔を見たくなくて、早く立ち直ってほしくて、つい喋りすぎてしまう。

「いい経験になったね」って。

負けてしまった現実をなんとかいいものにしてほしくて、大人のもつ過去の悔しさの経験と、その後それがあってよかったと思える経験とを無理矢理マッチングさせてでも伝えていく。

そんな大人が近くにいる子どもは悔しさの収め方が上手になってきた。今風に言うとレジリエンスが高い。

だって悔しくあり続けることを大人は認めない雰囲気がある。引きずるというか、浸っている余裕すら与えないというか、すぐに前を向くことが是であるように。そして大人は評価する。悔しい経験をバネに、再起する子どもの姿を。そこに自分の言葉が加われば、子どもの人生に参加したような感じがしてなんだかいい。

確かにどんな経験も何かにはつながるからそれはそれで間違ってはいない。ただ「いい経験になったね」という言葉は、やさしい言葉だからすぐに痛みを癒してくれる反面、やさしく癒してくれるからこそあの痛みが思い出せない非情さをはらんでいたりもする。

負けがいい経験になったと言うけれど、勝てば見えた世界はもっとあったことを忘れてはならないのだ。

そして悔しい気持ちをいい経験にできるのは本当に強い人間だけだからな、と僕は思う。

二度と味わいたくないと誓ったあの恥ずかしさなのか、悔しさなのかわからない感情は、真空にしてその痛さそのまま残しておければいいのだけれど、感情の賞味期限は本当に短い。現に5日経った今、僕のやつはほらもう薄れかけている。

だから、あの時のまま保存できないのであれば、後からちゃんと思い出せるように痛いと感じられる時間をちゃんと見守ってあげたいのだ。

子どもが悔しい時にほしい言葉を掛けるのが大人の仕事だと思っていたけれど、すぐに心を軽くすることが僕らの仕事だと思っていたけれど、それは本当だろうか?

恥ずかしさ混じりの悔しい気持ちを消化しきれずに蹴ったあの力のこもったボールが、本当は悔しい思いをする前に蹴りたかったボールだったと気付くんじゃないだろうか?ならもっとやれたよなって痛みと共に知って初めて、いい経験になる兆しがするんじゃないだろうか?切り替えの早さが通るべきを通れない可能性だってある。

本当は壁に蹴るそのボールの強さが教えてくれることもなんでもかんでも大人の経験で埋めようとしてしまう。いいんだよ放っておけばって言いたい大人がいる。

嘘つくなよ、いい経験になるだなんて、大人に借りた言葉で誤魔化すなって。本当は悔しいんだからって言いたい子どもがいる。

そういうものを時間をかけて蓄えて、しなやかに生きていける人であってほしい。

人に対しても、自分の感情に対しても嘘のない人間でありたい、と僕は思う。






















本当は作文で賞を受賞したことなんてない。

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