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僕とSS伊豆

きっとクラブの岐路だから、力いっぱいの言葉を紡ぐ。

熱狂的なエスパサポの友人に連れられて、アイスタに行った。僕は物心ついた時からサックスブルーの血が流れるジュビロサポなので、これは王国の法を犯すきれいな裏切り行為に当たるのだが、あくまでいちサッカーファンとして参戦したまでである。

山原怜音のユニを貸してくれると言った友人に「いゃクラブへの忠誠心があるから」「うっすい忠誠心のくせに」

グッズ販売に並ぶか聞いた友人に「いゃクラブへの愛着があるから」「弱い愛着のくせに」

パルちゃんと写真を撮るか聞いた友人に「いゃジュビィちゃん一筋だから」「簡単に浮気しそうなくせに」

王国におけるライバルサポ同士のこんなやり取りを楽しみながら、ジュビロサポとして一応の忠誠心を貫いた。

「大した忠誠心もないくせに」

サポとしての狂度でいうと、彼には到底叶わない。

毎シーズン更新されていくユニは今100枚近くあるのだろうか?家族みんながオレンジサポーターであり、昨年生まれた息子の名前にもエスパルスを感じさせる。

一方僕のジュビロへの狂度はいかがなものか?

ユニフォームは元々買わないと決めているし、ヤマハへも年に数回行くか行かないかである。ジュビロであった理由も、初めて知ったサッカー選手が中山雅史であったからぐらいの理由でこれがエスパルス側に転がる人生だってあった。もし将来、子どもが生まれたら名前はドゥンガであるはずがないし、なんなら育成に定評があるエスパ三島に入れたいとすら思っている。

ボカサポーターがリーベルサポーターを殺してしまうような狂い方があるかと言えばまるでそんなことはない。僕には「来年ダービーできたらいいな」ぐらいの温かさがある。

ただ、週末のジュビロのゲームを楽しみに1週間を過ごしているのは確かだし、ジュビロが負けるとまるでこの世の終わりかのような憂鬱を突きつけられる。

そういう意味では、僕なりに頑張ってジュビロに狂っている。

ヤマハやアイスタが近づく度に、サックスブルーやオレンジに色付く街にはサッカークラブが文化として根付いていることを知る。

W杯で優勝した時にアルゼンチン国民が狂喜乱舞したように、その街には本気でフットボールに人生をかけているサポがいる。A代表を応援するよりもずっとずっと高い温度で狂気するサポがいる。

「勝ちに狂喜し、負けに憂鬱を感じる」

最近この勝ち負けそれぞれに生じるエネルギーは果たして同じだけの振れ方があるのか?と疑問に思うことがある。

勝ちの喜びはもちろん嬉しいのだが残り方は一過性のものであることが多く、負けの憂鬱は厄介にも随分と長い間残り続ける。

それでは、負けがもたらす憂鬱はこの世の終わりを感じさせ、ゆえにその憂鬱がもたらす感情に抗わずにはいられないエネルギーの大きさがある種勝ちよりも大きいとすると、

クラブを大きくする知的生産性を誘発するその負けに本気で憂鬱を突きつけられる人がどれだけいるか、僕はそんなところにクラブの価値はあるのではないかと考えている。

サポーターの狂い方と文化としてのクラブの根付き方を見るとやはり静岡はサッカー王国だと言わざるを得ない。

これまで津々浦々、その街のカルチャーとなることを夢見た多くのクラブが立ち上がってはJという壁の高さに破れ、今日もまた届かない壁を前にそれぞれの憂鬱を抱え足掻いている。

そのひとつ。

SS伊豆である。

2016年に静岡県の伊豆地区を拠点に発足し、前人未到の7年連続での昇格を果たし今年東海1部に参入した。

しかし、参入初年度の今年はリーグ戦残り2試合を残して勝ち点4と大きく苦戦を強いられシーズン開幕前に描いた順風満帆なビジョンとは逆をゆく。

僕はその2ndチームに所属し、TOPチームのお下がりのかっこいいユニフォームを着て、久しぶりにプレーするサッカーに狂っている。

「またサッカー始めたんだよね」と自分の所属するクラブ名を伝えるのが誇らしいと感じるには、近年静岡県の中でも有数のサッカークラブとなった。ジュビロやエスパのアカデミーの選手達がオフでも練習着を着て街を歩くのと近い感覚かもしれない。

当たり前だが僕もクラブのエンブレムを背負っている。

このエンブレムを背負うだけで、知らない人が応援してくれる不思議がある。僕に選手としての価値はなくとも、エンブレムをつけた瞬間にクラブのストーリーの文脈の中の人としての価値が生まれるのだ。

これまで所属した選手達が上げてくれたこの価値あるエンブレムは、僕が加入した時にはもう既に重かったのだが、これから先、関わる人の多さに比例して更に重くなる。

ただしJリーグ参入を前にはまだまだやることがある。

まず上位カテゴリーを目指すサッカークラブである以上強くある必要がある。

当たり前だが、選手は皆強くあることを目指している。2ndの僕らですら強くありたいと願っている。

ピッチ上にある魅力的なフットボールが強さに昇華するのか、強さが魅力的に見せるのか、どちらが先かはわからないが、応援されるチームは総じてフットボールが魅力的である。

ピッチ上にあるフットボールが魅力的でなければ何も始まらない。シーズンが変わる度にここで戦いたいと思う選手を集めるためにも魅力的でなければならないのだ。そのために選手は日々戦っている。それも働きながら平日のTRをこなしているのだから、日曜日に楽しみにサッカーをしている僕はそれだけで彼らを無条件にリスペクトしている。

意図があり、再現性がある。他のチームとは違う何かがあってもいい。するとスタイルにはまずファンがつく。

毎試合SS伊豆のゲームを楽しみにしてくれるファンがつく。勝ち負けは関係なく選手の頑張りを見たいファンがつく。ホームの雰囲気やスタグル、推しの選手から入ってもいいだろう。まずは明確に、''あちら側ではない、こちら側''につくファンを作る必要がある。

すると、不思議なことに愛着には少しずつ熱が帯び始める。どうでもよかった勝ち負けがどうでもよくなくなる。耳馴染んだチャントを少し大きな声で歌いたくなる。

このチームを自分が指揮するならなんて語り出す人も出てくる。歴史あるクラブにはだいたい「お前誰だよ」とツッコみたくなる''自称戦術化''が生まれる。非保持のライン設定は、B-upの可変は、ファイナルサードの崩しは、なんて伊豆のサッカーを分析し始めてレビューを書き始めたり、時に選手にアドバイスを送ったりする。(Jリーガー意外とSNSの分析見てる説ある)

これはクラブとしての公式の見解ではないが、時に衝動を抑えられない温かなブーイングだってあっていい。ブーイング不要論をナンセンスとまでは言わないが、そこにリスペクトと倫理、道徳があればフットボールをフットボールたらしめる要素の一つだと考えている。

そうして一緒になって勝ちに狂喜し、負けに憂鬱を感じるとファンはサポーターとなる。

選手を動かしたい、この試合に勝たせたい、そんな当事者意識をもった人間をどれだけもてるかがクラブにとっては大切だ。

あの感情の乗った声の束は、スタジアムの圧力となり熱量となる。

その総和が強さとなる。

そして、いくら熱狂的なサポーターがつき、強くなったとしても、その地に愛され根付かなければ、カルチャーとは呼べず、永く続くクラブにはならない。

サッカークラブが地域のために与えられる価値は何か?

サッカークラブがサッカーを超えて貢献できる活動は何か?

答えは人の中にある。

結局、人なのだ。

本気で伊豆の地域貢献に寄与したいという人の想いが、応援し、応援される持続的な関係性を作りクラブを押し上げる。

子ども達の憧れるサッカー選手であり続けたいという想いがアカデミーをもつクラブの選手の使命でもある。

''憧れであり続ける''

エンブレムの重さに比例して自覚と責任が伴うゆえ、これはきっと人を動かす大きなエネルギーとなる。

きっとサッカーが強ければそれでいいなんて甘い世界ではない。もうそんなステージまで来てしまっている。

ファンマ・リージョは言う。

''ボールは早く送るほど、早く帰ってくる''

そういうことだ。














「強いクラブの条件ってなんだと思う?」

「当事者として、憂鬱な気分を突きつけられる人をどれだけ作れるかじゃない?もちろん、勝って熱狂できる人もね」

これはクラブの大きな一歩になる。

Vamos SS 伊豆


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