言語化や伝えるということに対して僕が大切にしていること。
まずこの世の中で一番好きな読み物が自分の日記や文だったりします。喋るよりもちょっとスピードを落として、言葉を選んでいく作業が好きで僕の幸せな瞬間のひとつです。
時間を掛けてせっかく選んだ言葉も前後の繋がりや全体のリズム、文の長さ、重さから何度も読み返して最後の最後で他の言葉に変えることがあります。時間を置いて読み返してみると、他の言葉がしっくり来ることがあります。
文章を書くコツは?と聞いていただけることがありますが、時間を掛けることだと思います。たくさんある言葉の中からリズムの良いものや響きのきれいなもの、それを元に喋るのなら自分の声に似合う言葉を選びます。
誰かと喋っている時に瞬発的に出てくる自分の言葉も好きですが、会話のコミュニケーションにおいては早く、多く、相互のやり取りをすることを求められるため、時間を掛けてワードローブの奥にあるとっておきの言葉を選ぶというより、手前にある着回しやすい言葉を選ぶことがあります。
そうすると好きなコーデではなかったと喋り終わった後に後悔することがあるんですが、言葉は時に、時間を掛けて選んだものより、多少不格好でも今ここだというタイミングを逃さなかった言葉が響く時があります。
ゆえに、伝えるという行為を考える時に大切にするのは、必要な時に必要な言葉を伝えるということです。
わからないかもしれないけれど、ちゃんと心を覗いてみようとして、その人の心の穴の形をした言葉を贈る必要があるんだろうなと思っています。
精一杯届けようとした言葉を間違えることだってあるし、定規で測ってサイズぴったりきれいに作ったはずなのに、関係性の上でハマらないこともあります。
言葉なんてそんなもんです。そんなもんだって思って、今はハマらなかった言葉をどこかで受け取ってもらえるように丁寧な関係性を育てていきましょう。
時間を掛けて選んでいるので、ちょっと綺麗過ぎますね。
綺麗すぎると''綺麗事''という言葉にまとめられる胡散くささが出てしまうんですが、綺麗な言葉が胡散くさくなってしまうかどうかは紙一重な部分があると思っていて、僕が言えば胡散くさいものも、大谷翔平さんが言えば金言になる。
かと言って、胡散くさくならないように、万人に響きやすいように嘘をついた言葉は、自分をも騙してしまい、自分ですら自分のことがわからなくなってしまうんでしょうね。
だから綺麗事が綺麗になるまで、やっぱり僕は自分の好きな言葉を選び続けたいなと思っています。
最後に。
10年近く前に一部の大人の間で流行り始めた言語化という言葉が、今では僕の周りの子どもたちもよくわからずに使うパブリックな言葉になりました。
この言語化における学術的なポイントはあるんでしょうが、僕は不学でわからないので僕なりの言語化について語って終わりにします。
僕が文を作る時、一番伝えたい相手は自分であることが多いのです。
今この感情に名前をつけるなら、この感情の源泉はどこにあるのか、この苦しい思いはなぜふつふつと湧き上がるのか?
すべて言葉にしてしまえば、救われる気がするのです。だからなんでも言葉にしてしまう。幸いそれを見た人も、僕が言葉にしておいたことで、自身で言葉にする作業を通らなくても救えてしまう。
そうなると自分の言葉が価値をもちます。
だから取り留めのない感情を言葉にするのが上手な人は書くことを仕事にできるのです。
もし言語化が上手だと言ってくれる人がいるのなら、僕のしていることはそんなところなので参考程度にどうぞ。
それでも言葉にしてしまうと、複雑な感情をもうそういうものだと心が決めつけてしまって、複雑さが消えてしまうことがあるので、言葉にしないことが望ましいこともあるんでしょうね。
「言葉にしたら、言葉が気持ちを上書きちゃう気がしてさ。」
ですって。
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