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#2 映画「AWAKE」にたどり着くまでの時系列(a.k.a. 自己紹介)


「AWAKE」と書いて「アウェイク」と読みます(二度目)。


ヘッダー画像も作って頂きまして、なんかこう、想像してたよりオフィシャル感が出てきてまして恐縮しております。途端にこう、「今俺は"原稿"を書いているぞ!」という気分になってしまうというか…。サブタイトルもちょっとキャッチーで…小林製薬っぽい感じで…。

さて、前回最後に「次は映画監督ってなにやるの?ということを説明してみる」と言ってしまったんですが、いきなり前言撤回していいですか。というのも前回のを読んでくれた上で「まずは誰なのかを知りたい」という話があったんで、それもそうか、ということで、今回は長めの自己紹介をしてみようと思います。いや、確かに自分のバックグラウンドの情報ってほとんどネットに出てないのでみんな戸惑うらしいんですよね(エゴサ怖い怖いなのでしないしよくわからないってのもありますが)。

以下、またしても時系列。

1980年6月12日

生まれます。東京都は江戸川区の病院で産まれてるんですが、父親が転勤してたため、直後は大阪に。2〜3歳くらいで転勤が終わって東京に戻り、暫く都内に住むんですが、その後引っ越して埼玉の東京寄りのところに住みまして、小学校までそこで育ちます。で、中学から都内に引っ越しまして、以降はずっと都内です。プロフィールで出身地を聞かれるケースは多いんですが、上記の感じなので「産まれもそうだし東京出身と言っていいだろ」と思い、東京出身と答え続けてます。車庫証明だけ都内に置いて品川ナンバーみたいなことになってない…ですよね?

1999年4月 大学進学

いきなり時間が飛びますが、18歳で、上智大学の外国語学部イスパニア語学科というところに進学します。イスパニア語っていうのは平たく言うと「スペイン語」のことです。

この頃までに「映画をやりたい」という気持ちはどこかの段階で芽生えてました。ただ、自分の場合何か一本の作品に衝撃を受けて「映画を作りたい!」と志したわけではないので、どこでそう思ったのかが非常に曖昧で…。中学の時にやたら近所のレンタルビデオ屋に行ってたとか、高一の時にはすでに一人で都内の映画館(それこそ新宿武蔵野館も)行ってたのは間違い無いんですが、そのどこかの段階だったのか、または既に思っていたからそういう行動をしてたのか、は自分でもわかりません。

で、高校時代にY先生という恩師がいるんですが、その方との進路相談時に「日大芸術学部とかで映画を勉強したい」と言ったところ、「映画だったら専門課程に進まなくてもサークルとかで学んで監督になる人もいるぞ(ゆえにあまり絞り込まない方がいいのではないか)」といったようなことを言われまして、こういう時にアドバイスに対して超素直ってのいうのが断じて自分の良い点な気がするんですが、「それもそうか」と思い絞らないで進学を選択。

となると、あとは消去法で理系ではないので文系。そして文系の中なら興味のあった外国語、ということでここに進学となったんですが、そもそもの間違いがY先生は早稲田のご出身だったんですね…。で、これは大いに偏見なんですが、当時の早稲田なら授業そっちのけてサークル漬けでというのもあったかも知れないですよそりゃ、と。ところがこのイスパニア語学科、「鬼のイスパ」と呼ばれてまして、めちゃくちゃ出席が厳しいんです。既にサークル活動とかで映画を作ってた僕は、結果脱落しまして、2年半後、20歳の時に自主退学します。

自主退学とはいえ、前述の通り絞らずして失敗したということもあり、今度は「留学して映画の勉強をする」と目標を絞りました。結果的にニューヨーク大学に行くのですが、この時に大学の受験用に作った短編映画は、その当時行われていたインディーズムービーフェスティバルという映画祭で幾つか入賞します。

2002年9月 二度目の大学進学(留学)

退学から1年の準備期間というモラトリアムを経て、ニューヨーク大学の映画学科に編入します。院ではなく学部への編入だったんですが、うまいこと上智大学で取った一般教養の単位が引き継げて、2年半で卒業の見込みが立ちます。

「なんでわざわざ留学なの?」っていうのはあるんですが、これも記憶が薄い…。一つは英語を喋れるようになりたかったのと、あと当時は本気でハリウッドで働きたいと思っていたのではないかと思います。そして今も昔もアメリカ映画が好きなので。そんな感じでしょうか。

英語はどうだったんだ、という話があると思うんですが、これは苦労もしましたが、中学ごろから本当にコツコツと勉強し続けてたんで、正直行った時点で相手の言ってることの9割方理解はできました。ただ、喋るとなるとまた別で…。初日の脚本の授業で「ニューヨークだし、留学生もそれなりにいるだろう」と思って教室に行ったら、留学生はおろか非白人も自分一人という状況に震え上がって本気で逃げようとした、とかありました。

さてそんな留学生活ですが、ほどなく終わりまして、そうすると仕事を探すために1年間のビザの猶予期間、というのが与えられます。その間に「アメリカに残るか?」「日本に帰るか?」を選択しなければいけないんですが、色々考えて残るよりも楽な「日本に帰る」を選択します。

ですがこの時に「作品が一本もない」という事実にハタと気がつきまして、この期間を利用して30分の「My First Kiss」という短編を作ります。この時にプロのカメラマンに入ってもらったこともあり、彼のおかげで映像の本格的な作り方を学べた、と言っても過言ではありません。この短編は自分でも満足がいくいい出来でして、これを手に帰国します。つっても数ヶ月バックパッカー旅行してからなんですが。

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※写真は無茶苦茶アメリカンな内容の「My First Kiss」

2005年4月〜2005年12月 就職活動期

さて、帰国しましてすっかりアメリカナイズされてしまった25歳職歴なし無職、職探しを始めますがまーこれがうまく行きません。思えばこの時「いきなり現場に行く」という選択肢もあったのかも知れないんですが、「せっかく大学出たんだし、世の中の仕組みがわかるし一度は企業に入っておいたほうがいい」という両親からのアドバイスに従いまして(素直)、諸々映像関係中心に受けますが、まぁ通らない。基本的には大して落ち込んだりしない性格ですが、人生で唯一戻りたくない時があるとすればこの期間です。辛すぎて最終的にはマジで教会に行きかけました。

とはいえやっぱり好きなものが扉を開くことがあるというか。禁酒願掛けも数ヶ月に達した年末にようやくトントンと幾つか映画会社の就活をクリアーしまして、最終的にそのうちの一社にて翌年から働き始めます。

2006年1月 就職

社会人、という言葉は好きではないので今もあまり使わないのですが、26歳にしていわゆる社会人1年目が始まります。この会社ではそれこそ映画の企画から始まって、最終的には洋画の買い付けのようなことの手伝いまでさせてもらうことになります。こっちは映画好きなのでそのどれもが楽しいといえば楽しいんですが、「監督」として映画を作ることからは微妙にズレていたので、実際に作りたい、監督したいという思いはずっと抱いていました。

そんな中で一つ転機があったのは、前述のアメリカで撮った短編、「My First Kiss」。これ何も考えずに作ったのもあって、30分という微妙な尺なので映画祭に出しづらかった(大抵短編は15分以下とすることが多い)のですが、2006年?の第3回山形国際ムービーフェスティバルにてグランプリを受賞しまして、そのスカラシップとして、1000万円で長編映画を撮る、ということになりました。そうして今度は2007年に「ハッピーエンド」という長編を作ります(公開は2008年以降)。

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※「ハッピーエンド」は「ラブコメ嫌いな女の子の周りでラブコメっぽいことが起こりまくる」というメタコメディ映画なんですが、最近Netflixオリジナルで同じプロットの作品があると知って夜毎シーツを噛んでいます

この「ハッピーエンド」で思い出深いのは、一つはアメリカのオースティン映画祭で観客賞を受賞したこと。実際に映画祭に一人で行きまして、単純にそれがとても楽しかった。留学初日に周り全員アメリカ人で震え上がってた頃からしたら遠くへ来たもんだ、です。そしてもう一つが「ちば映画祭」で上映してもらったことです。ちば映画祭の皆さんは、その後ずーーーーーっと次回作を作れと会うたび言い続けてくれた恩人です。「AWAKE」のエキストラや宣伝でも、個人的に色々協力をしてもらってます。

で、色んなことを端折って言いますと、会社の中で僕がこの賞をもらってスカラシップ長編を撮ったということが僕も全然知らない上の人の耳に入り、部署も全然違ったその方が、実際に「ハッピーエンド」を観て気に入ってくれて、ある時こんな話を持ってきます。「今度1st シングルを出すAKBのライバルグループの特典映像で、33人いるメンバーひとりひとりの短編映像を作るディレクターを募集してるらしいんだけどやってみない?」。確かそれが2011年末。前述の通り監督業に飢えに飢えていた頃でしたので、それはもう超本気で取り組みました。その短編「HOME DOMINO」は乃木坂46のファーストシングル「ぐるぐるカーテン」に収録されています。

超本気で作った甲斐あって、この短編の評判は関係者内で結構良かったのでした。自分でもすごく気に入っています。そして、その評判を聞いて、この話を持って来てくれた「上の方」というのが会社を辞めて別会社へ行く、ひいてはそこでディレクターを募集している、ということで誘われまして、2012年に転職をします。

2012年10月 転職

転職以降はプロデューサー寄りの以前の会社よりも、もっと現場に近い映像ディレクターの仕事をずっとしています。でもこれまた日々の映像仕事は映画とは違うものであり、それはそれで楽しくやっているものの、映画を作りたい火は消えず。なので、どこに行くかわからないながらも脚本だけはコツコツと書き溜めていました(や、というか、そこまでコツコツ努力した感じでは正直ないんですが、しばらく書いてないと「最近書いてないなー。書かなきゃなー」くらいの自省を伴うくらいには書いてました)。

2015年4月 電王戦FINAL第5局 阿久津主税八段 vs AWAKE戦が行われる

というわけで、第一回の文章に続きます。


以上、「長かったなー」のもう一端です。

なんというか、見方によっては今回ついに夢を叶えたみたいな形になるのでそこを声高に言えるっちゃ言えるんですが、やっぱり運の要素がメチャメチャ大きいと思っているので自分ではなかなか言い切れない部分があるんですが、こう書き並べてみると改めてしみじみ来るものがありますね…。

スティーブ・ジョブズは有名なConnecting Dots(点を繋げる)のスピーチで、「点は振り返ってしか繋げられない。だから将来繋がることを信じるしかない」みたいなことを言いましたが、色んなことを端折り倒して(中・高・大・留学中の友人たちや最初の会社でお世話になった人々とか)点を繋げちゃうと、まさにそう思えるというか。でも、確かにこの全ての段階で「映画が撮れないかも?」と思ったことは不思議とありません。多分限界が来る前に2015年が来たからなんでしょうけど。

イスパニア語学科を退学するときに「いつ映画を観せてもらえますか?」と笑ってくれたK先生も、最初の会社で薫陶を受けて「お前はいつ映画を撮るんだ」と言ってくれた映画のヌシのUさんも、近年相次いで他界してしまいました。Y先生も全然連絡を取っておらず、噂ではご存命でないのではないか、とのこと。仕方がないけど、観てもらいたかったなー。

以上恥ずかしながらプチ自分史でした。次回こそ、「映画監督ってなにやるの?」ということを書いてみます。多分。