書くということ
何か文章を書くというのが私は好きだ。実のところ、私は中学2年生の頃からブログというものをしている。一度担任の先生にそのことがバレて「そういうのは危ないからやめなさい」と怒られたけれど、ごめんなさいとだけ伝えて、気にせず続けた。そしてそれが今に至る。
書くということ。
まず思うのは、今の自分の気持ちや考えていることを言語化することだ。言語化すると頭の中がスッキリして整理されるし、整理されたものは自分のものになる。例えば、何か複雑な本を読んだとする。そのままにしておくと、やがてその時の気持ちや考えは風化していくのだけれど、「どこかに書き留めておく」といった手順が加わると、スッと頭の中に入っていく。もちろん、その本の本質を捉えているのかどうかは定かではないのだけれど。
でも、書いたからといって、その書いたことがまんま長期記憶に保存されるかといったら全くそのようなことはない。私は今まで何百という文章を書いてきたけれど、一度として読み返したことがない。読み返すのって恥ずかしいから。そんなこんなで自分の書いた文章を復習することなんてないのだから、そりゃあエビングハウスの忘却曲線通り、やがて全て忘れ去られるのだ。
だとすれば、書くということにはどんな意味があるのだろうか。
一つは、書いているときにフロー状態になる時があってその時がただただ心地よいというのがあるのかもしれない。時間すら忘れて没入する時って快感だと思う。
もう一つは、誰かに読んでもらえているという事実に支えられているからかもしれない。私はプロの作家のようにパッションを持って誰かの心に火を灯したいとは思ってはいないけれど、それでも、誰かに「勉強になった」「私の中のもやもやが少しスッキリした」と言われることがたまにあって、それが嬉しいのだと思う。アドラーの幸福論は他者貢献、私もその幸福論に賛成だ。
書くということ。
きっと、その意味は人によって違う。でも、言葉によってでしか自分の気持ちや考えは伝えられないこともまた事実である。書くということは、単に思考整理のためだと目的化するのでは味気ない。言葉をもって相手に何かを伝えようとする行為そのもの、それが書くということだ。
意思伝達は他の動物にだってできる。でも、こんなにも詳細に、そして美しく、あるいは相手の心を突き動かす可能性に満ちた伝達は人間にしか成し得ない。それが、書くということ。
それなら「話すということ」でもよくないか?
書くということを極めて高尚なものとして評価する私は、きっと口下手だからだ。